文書の二つの顔 (The Two Faces of Documents)

前回
squeuei.hatenablog.com

Plain Endian vs Rich Endian

文書を作成するとき、人々の中には二つのメンタルモデルが存在している。

  1. 文書とはプレーンテキストで表現される情報が主であり、見た目を持った文書はその派生物に過ぎない。

    この世界の住人は、記述された文字の情報に価値を置いている。あるRepresentationはありうる一つの形でしかない。だから、リッチなメディアを生成するのに十分な情報を埋め込んで、出力形態に応じて変換するのが効率的だ。

  2. 文書とはレイアウトを持ったリッチメディアが主であり、マークアップ言語による記述はそれを実現するためにしかたなく作る従属物である

    この世界の住人は、見た目、レイアウトを持ったメディアこそが価値を持っているのであって、ただでさえマークアップは面倒なのだから、その意味論なんて余計に記述したくない。なぜならお金にならないから。文書構造化とは「そんなものは機械に勝手に推論できるようにさせておけよ、そうでなければ別にいらんわ」程度のものでしかない。

これからは前者をPlain Endian、後者をRich Endianと呼ぶことにしよう(しない)。
Rich Endianの人々は、クソほどにも役に立たない再利用性なんてお題目は捨ててしまえと思っている。結局、銭稼ぐのに必要なのはWebページや印刷された/PDF化されたリッチメディアなんだ。望んだ通りの見た目がどれだけスピーディに実現できるか、ビジネスではそれが重要なのだ。Plain Endianは使いもしない可能性のために必死こいて徒労に終わっている実用性のないやつらだ。
Plain Endianの人々は、文書は体裁ではなくその構造と内容に本質があると思っている。論理立てて記述することが尊ばれるから、そのことを整理する上でも、論理構造の意味をマークアップすることは理にかなっている。スタイルやレイアウトは変換の際に任意で決められれば良い。それは本質ではないからだ。論理構造のマークアップはそれを可能にする。Rich Endianは目の前の問題だけにとらわれて、中身の統合性、意味論、当人が思っている以外の表現のされ方を軽視する軽薄な奴らだ。

みんな、なかよく。

人はなぜテンプレートから逸脱するのか

どちらかというと文書の成立過程に近い話として、ここでもまた二つのメンタルモデルが存在している。

  1. 自分の思想をテンプレートの中で表現する。

    たとえ内部文書であったとしても、物事をこう作りたい、こう表現したいという作成者の思想が強くある。たいていの場合は、承認者も同じ思想を持ち、かつ作成者のそれとは異なるヴィジョンを持っている。ここで、もし承認者が作成者のことを自分の代理人として捉えていると、自分のビジョン通りになるまで、修正が繰り返されることになる。

  2. テンプレートで問われていることに自分の思考を変換する。

    入力フォームへ記入するように自分の思考を変形させる。この作業を基本としている。その反対側には、求めたことだけしか答えられないような仕組みを構築する必要がある。何故、どうしてその文書を作らなければならないのか、そのために何を示さなければならないのか、それをどうやって示すか。この説明を徹底して納得してもらう。

業務で行うことと前提すれば、効率的なのは2であるだろう。もちろん、あまりにテンプレートが硬直的であれば運用が破綻してしまうが、不毛な往復を繰り返すことはない。 しかし、これは実現が難しい。それはなぜか。
実際の業務の行われ方を考えながら、想像してみよう。
まず、何らかの形で文書やチェックリストなどを作らなければならなくなったとする。おそらくその成り立ちは自律分散的で、各々が自分で発明した枠組みを使って、管理し始める。これを現場力の高さと呼ぶのかもしれない。
さて、たいていの場合、ある部署におけるニーズというのは組織内のほかの部分でも共通するものであるから、各部署が似たようなことを管理するために、別々の仕組みを導入することになる。
当然、これでは非効率なわけで、全体最適を目指して共通の仕組みを作っていきたい、と思うのは道理であろう。
しかし、これはめちゃくちゃに難しい。
なぜなら、その成り立ちから各々の枠組みには互換性がなく、またそれを変えていくことへの抵抗が強い。 現場力 の強さは権力や責任があいまいに分散してしまっていることと表裏一体だ。
共通の仕組みを導入しようとするなら、その要件を定義する必要があるが、この能力が欠如しているため、何故その枠組みを構築するのか、その目的達成のためには何が必要なのか、ということを判断できない。結果として、現状を維持しようとするあまりスーパセットを構築してしまいがちなのであろう。仕様が肥大化し、誰にも作りにくく、管理しにくく、使いにくいものになる。

ではどうするのがいいのか。多分銀の弾丸はない。
これも実際的でない夢想でしかないけれど、専任者を指名し、時間と協力体制と仕様決定に対する権限・裁量を与える。各担当者にヒアリングを行い、また仕組みとして何を目的としているのか、そのために何が必要なのかを考える。フィードバックを受けつつ、いいなりにはならないように留意しながら、仕様を作っていく。協力関係は不可欠で、また、相手に納得してもらうだけの理由と論理を構築することが重要になる、んじゃないかなあ……。

Exposed

TLに流れてきた、胸の大きなドールに露出の多い衣類を着せた写真を見た時、「こんなことがあってはならない」という思いが奇妙な程強く生じた。
それは起こるべきではないし、また、起こってはならない。現実はそんな風にはできてないのだから、と。
R18のイラストレーションを見てもそんなことは思わないのに。
自分のこの感覚について、どう説明したものかと考えてみたけれど、どうやら共感性羞恥、たとえばラブコメを読んで「自分もこんな風になりたい」って思った時の自分を恥じる気持ちに近いことに気付いた。
気付いて、笑ってしまった。
まるで自分が同性愛者であることを周囲にひた隠しにしながら弾圧するようなことをいう権威主義者の保守派政治家のようだ。

人肌恋しい、という言葉にwrapされた性欲、有害さがある。 性的な視線を人へ向けること。欲望を達成するための手段、ものとして人をとらえること。これは明確な悪だ。
だから、都合のいいことを願ってはならない。
自制的、抑制的でなければならない。

男性中心の社会を作り、その価値観を内面化させ、人間扱いをせず、滑稽な格好をさせて道化の様に笑いの対象とする、性的に搾取する。
そのくせ、さも自分には何の罪もありませんよといった顔をして平気でいる。
女性を憎悪し、同時に女性を求め必要とするミソジニスト男性たち。
異常な環境や言論に身を置きすぎて感覚が麻痺してしまったか、あるいは自己の利益のためにわざとすっとぼけてみせることを繰り返す、幼児的な思考の、図体ばかり大きな人間。
そんな不誠実な存在でいるのは、何より恥ずべきことだ。
その恥ずべき男性の列に、私もいる。
ああ、この世にクソ野郎さえいなければ。この世界はもっとマシな場所だったのに。

それでも、世の中は少しずつ良くなってきている。
未婚率が上がっているということは、それだけ有害な男性の被害を受ける女性の数が減っているということだ。
女性は一人で、あるいは女性どうしで生活する方が幸せなのだから、これは改善だ。
男性という既得権益者はその特権を剥奪された。というか、搾取的な構造が是正されたのだ。本来、人間は再分配できないのだから。

そもそも、恋愛や結婚をしたところでそれは幸福そのものではないし、むしろスタート地点に立っただけのことでしかない。
でも、そのスタートラインに立てる人間は、きっと素晴らしい人々なのだと思う。
高い能力と優れた人格を有している。
家事も育児も適切に担当・遂行する。
パートナーと密なコミュニケーションを保つ。
独善的、自己中心的にならず、誠実に責任を果たす。

私はそうではなかった。
精神的にも、肉体的にも、人格も、外見も、能力も、生活能力も、もしかしたら遺伝的にも、劣った人間だ。
そんな人間が何かを望んだところで、それは全て高望みにすぎない。
そんな人間に何も与えられないことは、それはまったくもって、妥当なことだ。
何かが間違って誰かと出会えたとして、人の本質は変わらない。
変わることがないので、どんなに取り繕っても私はいつか必ずぼろを出す。

世の中には本質的に善良で正しい人々がいる。そうでないものもいる。
私は前者に憧れているだけの後者であって、その隔りが消えることは決してない。
どうやってもなにもうまくいかないことが、確定している。
ただ、それだけのこと、どっからどう見ても妥当な帰結だ。

重ね重ね、早く楽になりたいね。

the final solution

問題解決能力

先日、郵便局へ不在荷物を受け取りに行った際、何らかの理由で男性と職員が揉めているのを目撃した。
柔軟な対応をする権限も義理もないのに、職員の方がかわいそうだ。言いがかりをやめたらいいのに。
そう思ったところで、この思考は現代的というか、ここ数年の流行でしかない思想に基づいているのかなと、ここ最近の自分の業務を思い出しながら考えていた。

その内容はこうだ。私が担当している業務でトラブルが生じた。で、その解決に対して私は主体的に動いていない。私は一々筋とか理屈とかをこねくりまわして、積極的に問題を解決しようという姿勢を一向に見せない。少なくともそのように周囲からは評価されている。これは公式のチャンネルから、そう明言されている。

目的を達成するためなら、たとえ不快なものであっても、コンフリクトを回避した安楽な道を歩もうとするな。あらゆる(コンプライアンスに反しない範囲での)手段を取って、例え嫌がられようとも無理矢理ねじ込んで、問題を解決しなければならない。労働者として、給与の代償として期待されているのは、この様な労働、このような能力なのだ。
それができない私は、金儲けにならない、問題解決にならない、使えない人間なんだなと、改めて実感した。
馬鹿で愚かで無能で怠惰な人間に相応しい哀れな末路。

そして、同じように、コンフリクトを回避しようとして、主体的に問題解決へ動けない人間、使えない人間ばかりが増えているのだとしたならば、そりゃこの国も衰退するわって話なのかもしれない。

主語が大きい? それはそう。

過去の栄光と寄生虫

一年以上前、職場の何らかの宴会の場で、過去に部署がやってきたことを聞く機会があった。
今となっては到底信じられるものではないけれども、確かにかつてここは世界初とか、業界トップを取るような製品を出していたんだな。当時画期的だった新技術を投入していたんだな。素直に感銘を受けた。
では、現時点における職場の開発力のなさは、一体何なのだろうか。最先端はおろか、何十年も前の技術を使い続けて、更新されることもない。業務は遅延と高コストと不具合と炎上対応ばかり。

もののけ姫に「どんどん力が弱っている、もう子どもたちは人の言葉を理解する力もない」みたいなセリフがあったと思うのだけれど、あれと同じようなことを、年配社員の方は感じているのかもしれなかった。
構成員の性能の劣化があった、と判断するほかない。

大企業の正社員は無能。その身分にしか寄る辺のない、哀れな無能たちの群れ。
そう言う自営業者、ベンチャー企業の人々の言葉も実体験に基づいた妥当性があるのだろう。

何が違うのかというと、やっぱり、ハードワークや熱意や主体性なんでしょうね。
やっぱり私達は過去の栄光の遺産を食いつぶしている寄生虫だ。

無能

It takes far more energy and work to improve from incompetence to mediocrity than it takes to improve from first-rate performance to excellence. And yet most people--especially most teachers and most organizations--concentrate on making incompetent performers into mediocre ones. Energy, resources, and time should go instead to making a competent person into a star performer.

Drucker, P. F. Managing Oneself. Harvard Business Review Press, 2008, 72 p.

世の中では多くの人々が不当な扱いを受けていると嘆いている。でもそれは本当だろうか。

たとえば、よい道具を手に入れたところで、あなたが生産的な人間になれるとは限らない。
よいPCで多少仕事が早く終わったところで、設備を更新したところで、職場環境を改善したところで、会社の売上が、利益が、大きくなるわけではない。
ある投資が、それに見合うだけの劇的な違いを生み出せると、説得できるだけの改善を、自分は提供できるだろうか。
できる、という人はいるだろう。そういった素晴らしい人々は確かに不当な扱いを受けている。だから脱出して、素晴らしい場所へたどり着ける。そうできるし、同時に、そうすべきだ。

ある組織にとって、無能を抱えたまま放置することは最大のリスクだ。

相応しくない人間が、相応しくない行動をしたり、相応しくない地位に就くことは有害なのだ。
この世のあらゆることには最低限満たしていなければならない水準がある。それを満たせないのならば、そこから退場しなければならない。
それを無視して道理をねじ曲げて、相応しくないことをすればどこかでしっぺ返しを食らう。ひどいことが起こる。
国、社会、企業、製品、プロジェクト、これらは個人よりも長く生き残る。一般に、長く残るもののほうが大事、重要だ。であるならば、大きなもののために小さなものが犠牲になるのは、仕方のないことではないか。

では素晴らしくない人々は、素晴らしい場所へたどり着けない人たちは、どうすればいいのか。
利用できるリソースは限られている。一番分かりやすい例で言えば、お金がない。
リソースが限られているのであれば、最大のリターンを得るために、これから伸びると判断できるもの、伸ばすべき領域を選んで、集中して投資しなければならない。
そのような状況下では、余計な場所にリソースを振り分ける余裕などない。むしろ、今後が期待できない領域からは撤退しなければならない。人も物も、減らさなければならない。

そうして出来上がった素晴らしくない場所で生きることは、おそらくはそんなにいいことでもないし、生きている側からしても割に合わない、苦痛を伴うものになるだろう。
生きていないほうが幸せになる人もいるだろう。
そもそも、死んだ後は死んでいるのだから苦しさも何もなくて、問題となるのは死の瞬間その時の苦痛だけであるはずだ。そして、その苦痛は現代医学の知見を活用することで、生化学的に和らげることができるだろう。
そういう終わり方のほうが、私は幸せなのではないか?

私達が何かを手に入れるとき、それがどれだけの利益、利便性、快適さ、楽しさを生み出すのかを考える。
では、私が存在する利点は、生かしておく理由は、何があるのだろうか。
税金は支払っている分よりも受け取る分のほうが多いものだ、とはよく言われるものだけれど、もしそうであるならば、ある人物がいなくなることで失う税収より、得られる社会保障費削減のほうが多いということになる。
多様性が大事だというなら、遺伝子情報や配偶子だけ保存しておいて、必要に応じて取り出して用いればいいだろう。

金持ちを貧乏にしても貧乏人が金持ちになるわけではない。
撤退戦にいるのに、誰もまともな判断ができない。みんな平等に、死ぬべきでないものまで死んでいく。
自分の様な人間がリソースを奪っているばっかりに。そのくせつまらなそうな、苦しそうな、つらそうな顔をしているのに。
一体誰が得をしているんだろう。
誰にとっても有害なのでは?

早く楽になりたい。

ニジガクに感じる心地よさと、それが実現し得ないこと

アニメ『ラブライブ!虹ヶ咲学園スクールアイドル同好会』にあまり関係がないこと。主張内容に妥当性もないこと。言いがかりにも等しいこと。

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現代文書の構造 (La structure des documents modernes)

文書を記述する際に、構造――ここでは見出しなどを指す――を機械が可読な形で行うことに意味はあるだろうか。

前回の続きといえば続き。

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文書をつくるという営みについて

Wordで文書を作ることの難しさを考えている。
正確に言うと上の文章は嘘だ。本当は、文章による情報蓄積をどのように行っていくべきなのか、それを考えた上で文書を管理する体系を構築することの難しさを考えている。

例えば、文書の中で強調したい部分があるとする。ふつう の人にとって、第一の手段は B ボタンをクリックする、またはC-bを押すことだろう。
でも、本来的には、標準の太字強調、あるいは、ユーザが作成した強調用のスタイルを適用するべきなのだ。
ある書体が太字やitalicに別のフォントを持っている時には、特に重要になる。
他にも、本文の書体を変更するときは、個別の選択範囲の書体設定を変更するのではなく、デザイン-フォントで文書が使用する書体を指定するほうがいい。
上二つの操作をすることで、後から強調の部分だけ書体やサイズを変えたいだとか、一括して本文書体を変更したいとか、そういうことが楽に行える。

ほかにもモダンなWordでは游ゴシック/游明朝がデフォルトになっているが、この設定だと行間が妙に広くなる。
これはページ設定の行数設定から算出される行送り [pt] におさまらないため、二行に渡って文字が配置されることによる。このことは表示-グリッド線を表示することで容易に理解できる。
インターネットでは段落設定から1ページの行数を指定時に文字を行グリッド線に合わせるのチェックを外すことが推奨されている。
しかしながら、使用する書体に合わせて、収められるだけの余白、行数を設定した文書を作成する、ということのほうが筋が通ると思う。

社内文書にテンプレートが用意されていて、ここにはどんな情報を記入するという形式が罫線やテキストボックス、あるいは表によって実現されているということはよくあるだろう。
こういったヘッダ部を罫線やテキストボックスで作ることはナンセンスだ。確かにレイアウトは固定されるが、その見た目を実現するために様々なものを犠牲にしている。
表を使えば、事態は多少はマシになるだろう。中に収める内容を変更したとしても、多少の柔軟性をもってWordが自動調整してくれる。
しかしながら、表は表だ。表は、見た目を実現するためのものではない。では、見た目はどうやって実現すればいい?
そもそも、枠で囲むとか、そういうテンプレートを作ることがナンセンスだ、そういう、本質的でないことをやめるのが大事だ、と考える。
表は、表だ。表としてあらわすことが適切な関係性だけ、表によって表現するべきだ。その罫線を今すぐやめろ。
それに加えて、ヘッダ部分はあくまでヘッダでしかないのだから、そこに自由度は必要ない。最初に表題とか、作成者とか、種類とか、日付とか、そういう情報をフォームに入力すれば、ヘッダ部分が生成される。そういうシステムを作ることが肝要だろう。

しかしながら、これらをある組織内のユーザ全員に徹底するというのは、求めるリテラシーが高すぎるだろう。私一人が主張してみたところで、単なる独善的なものに過ぎない。
人は意図を書くのではなく、望み通りの見た目を実現したいだけなのだから。
kaoriha.org
意図の記述を、予め用意した文書テンプレートの体系へあてはめ、見た目を実現する自動処理。この考えがもう間違っているということになる。 それに、時代は移り変わる。使用するアプリケーションも、そのバージョンも、あるいは文書に求められる情報も、変化し続ける。
その変化が生じる度に、システムを作り変える、 テンプレートを更新し続ける、古いバージョンを変換して維持する。
そんな悠長なことを、一体誰ができるというのだ。
問題解決に使えない、役に立たない、金を産まない 正しさ なんてクソくらえだ、という人は、特にマネジメントに多いだろう。彼らの責務からして、それは圧倒的に正しい。

現に、いまこの記事を書いているときにも悩みながら書いている。
htmlには<p>要素がある。その一方で、日本語には(少なくとも日本の国語教科書的には)“意味段落”と“形式段落”、二つの段落が存在している。English Writingにおけるparagraphに対応するのは“意味段落”の方だろう。
しかしながら、見た目の観点でいえば、原則として全ての“形式段落”に対して、先頭の字下げが行われる。
行頭の字下げは、見た目だ。見た目を実現するために、行頭へ全角スペースを追加するのはナンセンスだ。実際に<p>要素にはCSSを用いて自動でインデントさせることが可能だ。同等の操作がWordでも行える。
では<p>は“形式段落”に対応させるべきなのか。そうとも言い切れない。
paragraph、あるいは“意味段落”の間には空白を設けるものである。この見た目を実現するために、<p>、あるいはWordの段落に対しては、自動的に前後へ空白を追加する機能がある。
しかしながら、先ほど論じた通りに<p>-“形式段落”を対応させていると、この機能を活用できない。“形式段落”ごとに空白が生成されてしまう。できることといえば、空行を追加することで見た目を実現することだけ。
なんと、どちらにせよナンセンスが生じてしまった!
私自身としては、<p>は“意味段落”に対応するものとし、形式段落については改行(Markdownでは半角スペース二つ連続、WordではS-Enter)を使っている。普通のブログでは行頭の字下げを行わず、小説を書くときは正規表現を用いて一括で置換している。が、これは私がそうしているというだけであって、万能の解ではない。

そもそも、西欧言語、もっといえば英語にしか世界には存在しないと思っているような人々が作っているのだから当然だ、という態度も当然ありうる。
だが、地球上のすべての言語をカバーできるような文書構造体系、UnicodeのHTML/Word版というのは、果たして実現しうるものだろうか。
わからない。
何にもわからない。

ということを書店で見かけたこの本のタイトルをみて考えましたとさ(この本を読んだというわけではないです)。

Unsearchable Web

TL;DR

Web検索(というかGoogle検索)が役に立たない、探しても有用なコンテンツに到達できない時代がもう来ている。

どういうことよ

ちょっとメインストリームから外れたモノやコトを検索しても、それに関連する情報が織り込まれたWebページへたどり着けない。 ずらっと並んだ検索結果のリストは、怪しいドメインで公開されているとろけた日本語の――おそらくは自動生成された――Webサイトが大半を占めているだろう。 残りは本物の、しかし目当ての情報は含まれていない、通販サイトだ。

ニッチな情報とは、本質的に求められる機会が少ないからこそ、ニッチと呼ばれる。 しかし、検索してもヒットしない、たどり着けないのであれば、ニッチどころではなく単なる無意味だ。 書かれた情報は、誰の目にも触れることなく、HTMLが動的生成されるのを待ちつづけて終わる。そのサーバの運用が停止されるまで。

ここで、わが身を顧みると、自分でも検索するときの第一選択肢が必ずしもGoogleではなくなってきている。 TwitterYouTubeをまず検索する、ということが増えた。 Web検索するにしても、BingやDuckduckgoのほうがまともな結果を得られる時も少なくない。

当面の経済的利益のために生成された価値のない情報。 その存在は、未来から2020年を振り返った時、「価値のある活動をしてこなかった無能」だと評価させる理由になってしまうのかもしれない。 きわめて薄い情報しか残さなかった時代として。

何が言いたいかというと

このBlogの記事のいくつかはGoogle検索でヒットしません。 自動生成サイトよりもこのブログの価値は低いのだ。 人生は厳しい。