the final solution

問題解決能力

先日、郵便局へ不在荷物を受け取りに行った際、何らかの理由で男性と職員が揉めているのを目撃した。
柔軟な対応をする権限も義理もないのに、職員の方がかわいそうだ。言いがかりをやめたらいいのに。
そう思ったところで、この思考は現代的というか、ここ数年の流行でしかない思想に基づいているのかなと、ここ最近の自分の業務を思い出しながら考えていた。

その内容はこうだ。私が担当している業務でトラブルが生じた。で、その解決に対して私は主体的に動いていない。私は一々筋とか理屈とかをこねくりまわして、積極的に問題を解決しようという姿勢を一向に見せない。少なくともそのように周囲からは評価されている。これは公式のチャンネルから、そう明言されている。

目的を達成するためなら、たとえ不快なものであっても、コンフリクトを回避した安楽な道を歩もうとするな。あらゆる(コンプライアンスに反しない範囲での)手段を取って、例え嫌がられようとも無理矢理ねじ込んで、問題を解決しなければならない。労働者として、給与の代償として期待されているのは、この様な労働、このような能力なのだ。
それができない私は、金儲けにならない、問題解決にならない、使えない人間なんだなと、改めて実感した。
馬鹿で愚かで無能で怠惰な人間に相応しい哀れな末路。

そして、同じように、コンフリクトを回避しようとして、主体的に問題解決へ動けない人間、使えない人間ばかりが増えているのだとしたならば、そりゃこの国も衰退するわって話なのかもしれない。

主語が大きい? それはそう。

過去の栄光と寄生虫

一年以上前、職場の何らかの宴会の場で、過去に部署がやってきたことを聞く機会があった。
今となっては到底信じられるものではないけれども、確かにかつてここは世界初とか、業界トップを取るような製品を出していたんだな。当時画期的だった新技術を投入していたんだな。素直に感銘を受けた。
では、現時点における職場の開発力のなさは、一体何なのだろうか。最先端はおろか、何十年も前の技術を使い続けて、更新されることもない。業務は遅延と高コストと不具合と炎上対応ばかり。

もののけ姫に「どんどん力が弱っている、もう子どもたちは人の言葉を理解する力もない」みたいなセリフがあったと思うのだけれど、あれと同じようなことを、年配社員の方は感じているのかもしれなかった。
構成員の性能の劣化があった、と判断するほかない。

大企業の正社員は無能。その身分にしか寄る辺のない、哀れな無能たちの群れ。
そう言う自営業者、ベンチャー企業の人々の言葉も実体験に基づいた妥当性があるのだろう。

何が違うのかというと、やっぱり、ハードワークや熱意や主体性なんでしょうね。
やっぱり私達は過去の栄光の遺産を食いつぶしている寄生虫だ。

無能

It takes far more energy and work to improve from incompetence to mediocrity than it takes to improve from first-rate performance to excellence. And yet most people--especially most teachers and most organizations--concentrate on making incompetent performers into mediocre ones. Energy, resources, and time should go instead to making a competent person into a star performer.

Drucker, P. F. Managing Oneself. Harvard Business Review Press, 2008, 72 p.

世の中では多くの人々が不当な扱いを受けていると嘆いている。でもそれは本当だろうか。

たとえば、よい道具を手に入れたところで、あなたが生産的な人間になれるとは限らない。
よいPCで多少仕事が早く終わったところで、設備を更新したところで、職場環境を改善したところで、会社の売上が、利益が、大きくなるわけではない。
ある投資が、それに見合うだけの劇的な違いを生み出せると、説得できるだけの改善を、自分は提供できるだろうか。
できる、という人はいるだろう。そういった素晴らしい人々は確かに不当な扱いを受けている。だから脱出して、素晴らしい場所へたどり着ける。そうできるし、同時に、そうすべきだ。

ある組織にとって、無能を抱えたまま放置することは最大のリスクだ。

相応しくない人間が、相応しくない行動をしたり、相応しくない地位に就くことは有害なのだ。
この世のあらゆることには最低限満たしていなければならない水準がある。それを満たせないのならば、そこから退場しなければならない。
それを無視して道理をねじ曲げて、相応しくないことをすればどこかでしっぺ返しを食らう。ひどいことが起こる。
国、社会、企業、製品、プロジェクト、これらは個人よりも長く生き残る。一般に、長く残るもののほうが大事、重要だ。であるならば、大きなもののために小さなものが犠牲になるのは、仕方のないことではないか。

では素晴らしくない人々は、素晴らしい場所へたどり着けない人たちは、どうすればいいのか。
利用できるリソースは限られている。一番分かりやすい例で言えば、お金がない。
リソースが限られているのであれば、最大のリターンを得るために、これから伸びると判断できるもの、伸ばすべき領域を選んで、集中して投資しなければならない。
そのような状況下では、余計な場所にリソースを振り分ける余裕などない。むしろ、今後が期待できない領域からは撤退しなければならない。人も物も、減らさなければならない。

そうして出来上がった素晴らしくない場所で生きることは、おそらくはそんなにいいことでもないし、生きている側からしても割に合わない、苦痛を伴うものになるだろう。
生きていないほうが幸せになる人もいるだろう。
そもそも、死んだ後は死んでいるのだから苦しさも何もなくて、問題となるのは死の瞬間その時の苦痛だけであるはずだ。そして、その苦痛は現代医学の知見を活用することで、生化学的に和らげることができるだろう。
そういう終わり方のほうが、私は幸せなのではないか?

私達が何かを手に入れるとき、それがどれだけの利益、利便性、快適さ、楽しさを生み出すのかを考える。
では、私が存在する利点は、生かしておく理由は、何があるのだろうか。
税金は支払っている分よりも受け取る分のほうが多いものだ、とはよく言われるものだけれど、もしそうであるならば、ある人物がいなくなることで失う税収より、得られる社会保障費削減のほうが多いということになる。
多様性が大事だというなら、遺伝子情報や配偶子だけ保存しておいて、必要に応じて取り出して用いればいいだろう。

金持ちを貧乏にしても貧乏人が金持ちになるわけではない。
撤退戦にいるのに、誰もまともな判断ができない。みんな平等に、死ぬべきでないものまで死んでいく。
自分の様な人間がリソースを奪っているばっかりに。そのくせつまらなそうな、苦しそうな、つらそうな顔をしているのに。
一体誰が得をしているんだろう。
誰にとっても有害なのでは?

早く楽になりたい。