自覚と責任と自動車(と趣味一般)のはなし

ここ最近自動車が欲しいという気持ちを抱いている。 もちろん自動車の所有にはコストがかかる。車両を購入するイニシャルコスト。車検ガソリン保険駐車場などのランコスト。せいぜい月々の電気代程度で済むPCや、数年毎のオーバホールで済む腕時計とは大違い。すぐに手放せない以上、所有することに相応の覚悟が必要な資産である。

ここで、自動車を獲得することによるベネフィットとはなんだろうか。一番大きいものとして、自分が望んだ時間に、自由に移動するための手段を確保できる、というものがあるのだと思う。たとえば、レンタカーやカーシェアリング、またはタクシーでは、自分が望んだ時間に満車で使えないかもしれないし、そもそも近くにそういったサービスの提供がされていない場合もある。このような状況かつ特に公共交通機関網が貧弱で、通勤通学や普段の生活に支障を来すのであれば、自動車のベネフィットは大きくなるだろう。 また、移動手段以上のものとしての見方としては、それ自体を娯楽の道具として見る、ということが挙げられるだろう。自動車の運転それ自体に楽しみを見出し、エンタテイメント端末やスポーツ器具と同じように、自動車をみなす、ということだ。その楽しみ方はまったくもって正当なものであって、そのために自動車を持つことは馬鹿げている、と一律に否定してしまうのは、あまり筋が良くない主張と言えるのではないだろうか。

さて、ここまではベネフィットの事について書いた。しかしながら、自動車の運転には当然リスクが存在する。 最も明らかな例は交通事故を起こすことだろう。事故を起こした場合、3つの責任が問われることになる。刑事上の責任、行政上の責任、民事上の責任である。刑務所にて服役しなければならないし、免許は取り消されるし、損害賠償をしなければならない。あるいは、現代においてはそれ以上の「責任」が発生するかもしれない。加害者になれば、家族からの糾弾、怨恨、非難は避けられない。かつては親しげだった周囲からの目線も厳しいものへと一点するだろう。仕事をクビになるかもしれない。場合によっては離婚、家族離散ということもあるだろう。 加えて、自分の身体に後遺症を残すこともある(他人の身体を傷つけることは上に含めてしまおう)。即死する事故であればまだ救いがある――やり残したことはるかもしれないが――。重度の昏睡状態におちいったりすれば、身の回りの誰かしらがそれを支えなければならない。身体や認知能力に関する後遺症が残れば、その後の生活は、周囲の人間を巻き込んで、つらく厳しいものへと変わるだろう。 当然、交通事故は社会問題の一つであるから、事故を防く方策は常に進歩しつつある。特に、近年の安全装備高度化にはめざましいものがあると言えよう。しかしながら、それでも事故を撲滅するには至らず、最終的には運転手の技量と判断力に、交通の安全性はゆだねられている(余談:私は「運転に慣れれば事故が減る」という見解に対して懐疑的だ。であるならば、何故「過剰な慣れが事故を誘発する」などという矛盾した主張が同時になされるのか)。

このように、自動車の運転にはコスト、ベネフィット、リスクが存在する。 私が言いたいのは、世の中の運転者はこれらのことを全て自覚した上で、コストもリスクも全て引き受けて、主体的な選択に基づいて、自らの責任で運転を行っている、ということの偉大さだ。 社会においては責任転嫁は許されないことであるという価値観が共有されている。実際、現実的に交通事故の責任から逃れることはできないだろう。 故に、あらゆる自動車の運転はコストとリスクを上回るだけのベネフィットが運転にあるという判断に基づいて行われている。その判断力、運転技量の高さ、そして覚悟に、私は感銘を受ける。 こういった人びとは、たとえ何かが決定的に失われることがあったとしても責任転嫁することなく、全ての帰結をただ静かに受け入れ、責任を果たしていくのだろう。

私はそうではない。運転をしたいと思いつつも、日常生活に自動車は必要ないので、楽しみとしての運転にベネフィットがあると確信できない。私は口先だけの人間だ。事故が怖くて運転することを避けてしまう。運転の技量もない。運転に対する習熟が事故のリスクを減らすとも考えられない。私は、事故を起こしたあとで「運転なんてしなければよかった」と思わないでいられる自信がない。責任から逃げないでいられる確信を持てない。 こういうことを言っていると「自分のしたいこともできないなんて主体性がない、覚悟が足りない。本当は運転したくないのを隠したくてうじうじしてるだけ」と言われてしまうのだろう。そして客観的に見てそれは正しいことなのだろう。 結局は、すべてを自覚した上で、今まさにやっている人間だけが本物で、それ以外は全部フェイクということなんだろう。フェイク野郎に相応しい人生、というわけ。

こういったことが、自動車の運転に限らず、ありとあらゆる欲望に関して、私へ適用される気がする。自覚と責任を持てない、主体性のない、人間未満だ。 社会を生きる大人たちは、自覚と責任を持って生きている。私は少なくとも精神的には大人には程遠い。 大人になる方法も、幸せになる方法も、私にはわからない。生きている間にわかる時が来るとも思えない。 私は弱虫だ。