不可解なすべて

いわゆる百合、ガールズラブ作品が好きだ。『百合姫』も『まんがタイム』系列も定期購読してないし、百合漫画全部買うもしてない。でも好き。最近の良かったは『ガラスの靴を脱ぎ捨てて』と『ささやくように恋を唄う』で、良くなかったことは明らかに最高だった『ふりだしにおちる!』がわずか2巻にて完結してしまったことです。人はなぜ――

さて、そんな私もその手のジャンルの作品を書いてみたいなと思うこと幾星霜。問題にぶち当たったので、ここに書いて整理してみる。

Disclaimer: 以下の記述はあくまでフィクショナルな自作の人間関係描写に関する話です。現実の人間関係に適用しうるものではありません。

親密な二人の女性同士の関係を描写する際、というか具体的に言うとなろうとカクヨムに載せてる“The Pulse of Your Heart”の話だけど、この話を進めようとした時に、肉体関係のある、いわゆる同性愛の文脈に落とし込んでしまいそうになる。 いや、肉体関係のある同性愛の文脈に落とし込むことそれ自体は全く悪いことではない。あるまんがシリーズ(ネタバレのため名前を挙げません)がそうなった上で続刊が出ているのは感慨深い。しょせん私は途中から追いかけ始めた身分ですが――。

閑話休題。 つまり何がいいたいかというと、百合にカテゴライズされる話を描こうとした際、友情の領域に留めるのか、それとも肉体関係まで進めてしまうのかと悩んでしまうのは、その中間や曖昧性のある状態を許さず、人間関係をわかりやすいテンプレートに落とし込もうという作者の怠惰なのではないか、という話。 よく男女間の人間関係を描く作品であっても、「ふたりの関係に勝手に名前を付けるな、型にあてはめるな」という主張がなされることがある。 キャラクターを物語上のテンプレートに沿って動かせばいいというものではない。はい。 それはその通りで、二人(あるいはそれ以上)間の関係性は、それぞれに固有であって、なんらかのカテゴライズをするべきではない。 でも、友情にとどめれば私は同性愛に否定的なのかという気がしてくるし、セクシャルインターコースを持たせればゴシップ的というか、俗っぽいというか、まるでカミングアウトを強要しているようにも感じられてくる。 ということで、この話の続きを書くにはふたりの関係性がどのようなものであるべきなのかをしっかりと検討しなければならないし、そのためにはちゃんとキャラクターへの理解を深めるところからはじめなければならない。ということで、行き詰まっています。 私は、自作のことについて何もわかっていないし、(『天気の子』エントリで言っていたように)自分や読者を納得させられるだけの妥当性を想像/創造しなければならないんだよなあ。

あ、地図街が書き進められないのは単純に私の責任です――。

Traffic Kingdom

Motorcycle

自動車の運転を不安がっていると、じゃあ自動二輪に乗ればよいのでは!? というアドバイスを受けることがある。 自動二輪免許持ってない人間に勧めることじゃないでしょって思うけど、考えてみるときはある。 本質的に、二輪車とは恐ろしい乗り物である。事故を起こした時に一発で死ぬのであればまだいい気がするけど、重い後遺症を残す場合が多く、その上四輪車よりも事故を起こす率が高い。 それでも一発で棄却してしまえないほどには非ライダーの視点からであっても魅力がある。たとえば、目の前をTriumph Tiger 800が通過した際のサウンドは心を揺さぶるものだ。

さて、自分が二輪車に求める要件を定義するとしたらどのようなものになるか、ということを考える。

  • メカノイズがする
  • マフラーの音は全然興味がない
  • フラットダートは走れるくらいのスタイルがかっこいい(走るとは言ってない)
  • 2気筒程度の水冷エンジン
  • 250cc〜600ccクラス? (二輪免許もってなし)
  • フルカウルじゃないやつ
  • 背が高くない、足つき性がよい
  • 高速道路含め長距離をクルーズできる性格
  • 神経質でない操縦性

この条件で検索すると、スズキのV-Strom 250がヒットした。オフロードはあんま走れなさそうだけど、私がオフロードを走るとも思えないので、これがいいのでは? という気がする。

繰り返しになるが、私は自動二輪免許を持っていない――

Bicycle

話をすっ飛ばして自転車の話。 私の身の回りにも自転車にはブロンプトンを勧める一派というのが存在する。 ブロンプトンというのは高級な折りたたみ自転車だ。イギリス生まれ。スポーツ指向というよりはコンフォートなイメージ。折りたたんだ際のサイズが小さい、リアキャリアにローラが付いているので折りたたみ状態でも転がして運べる、などの利点がある。

買うとしたらM3Lだけど、定価で210,000円(税別)する。高い。 個人的に気になるのは、パーツが一般的なものではないことと、ホイールがクイックリリースでないこと。 パーツは汎用的で互換性があった方がいいと思うし、ホイールがクイックリリースでないとパンク修理が難しい。

とはいえ、買った人が後悔していないところを見ると、相応の良さがあることが予想される。 実際のところどうなんでしょうね。

Risk Benefit Balance

もし悩みの種を抱えているならば、ウィリス・H・キャリアの公式を使って、三つのことをやってみるべきだ。

  1. 「起こり得る最悪の事態とは何か」と自問すること。
  2. やむをえない場合には、最悪の事態を受け入れる覚悟をすること。
  3. それから落ち着いて最悪状態を好転させるよう努力すること。

デール・カーネギー. 道は開ける 新装版. 創元社, 1999.

前提:大人は、自分の置かれている状況コストとベネフィット、そしてリスクを自覚し、ハザードの責任を負う覚悟をした上で行動する、主体的な存在でなければならない。

ベネフィットを得るためには、必ずリスクを負わなければならない。つまり、ある選択をするときに人は それがほんとうにお前の利益となる保証はあるのか ということを問われている。あるいは、問わなければならない。

自動車の運転を例に挙げよう。

交通事故って多くの場合は偶然とか、ふとした気の緩み、油断によって生じるわけで、その発生頻度を下げる方法なんてないのではないか、と思う。 であれば、リスクを低減する方法など存在せず、故にどれだけのベネフィットを運転に見いだせるのかという一点に、判断基準は帰着する。

例えば生活に必要な環境にある人間にとっては、事故のリスクを生存のベネフィットが上回るだろう。これはよい。 では、私が該当するであろう、娯楽の為だけに運転者にならんとする者はどうだろうか。自らの享楽のためだけに運転するベネフィットは、人を殺し、傷付け、自分や誰かの人生を台無しにするリスクを上回るものなのだろうか。 そうだ、と言いきれるから、世の運転者は運転することを選んでいる。

では、私はどうか。 心の底から、それだけのベネフィットがあると、ハザードの責任を負う覚悟があると、自分のスキルは十分リスクを低下させられるのか。 未だに確信を持てない。 なら諦めればいいじゃないかという話に当然なるんだけど、それを諦めることすらできない。自動車に乗ることに対する憧れを捨てることができない。要するに馬鹿なんですね私は。 要するに、やっぱり私は口先だけの人間で、したいしたいと言っていることは本当にしたいことじゃなくて、自分自身に対する認知さえ歪んでいる、何もかもが嘘っぱちのフェイク野郎なのだという結論を再確認するだけなのですが……。

人生は連続的な選択によって構成されている。私は人生を生きることができているのか。世の中の主体的に人生を生きている大人の人びとは凄いのだ。

レンズ一体型ディジタルカメラ

私は、比較的珍しい側に分類されるであろう、富士フイルムのX70というカメラを使っている。

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35mm換算28mm F2.8の単焦点レンズにAPS-Cの撮像素子を組み合わせた、端的に言えばRICOH GRみたいな市場を狙った製品、のはずである。とはいえGRとはキャラクターが明確に違っていて、操作系は独立したシャッター/絞り/露出補正ダイヤルが基本になっているし、レンズキャップは内蔵型じゃないし、薄さを犠牲にしてチルトのタッチパネルを搭載している。つまりあんまりスナップシューターじゃない。 私は、タッチパネルでフォーカス位置を設定できるのも便利に使っているし、チルト液晶があるととても嬉しいんだけど、後者がGRにつくことはまずなさそうだし、実質的なX70後継とも言えるXF10からも外されている。個人的にはレンズはもっと長いといいなと思うけど、世の中の人々はそう思ってはいないだろう。

何がいいたいかというと、私がいいと思うカメラはまず出てこないんだろうなって話。私の願望というのは、APS-C〜35mmフルサイズの撮像素子に50mm F2からF2.8くらいのAF単焦点レンズを組み合わせた、チルト液晶搭載のレンズ一体型ディジタルカメラだ。できれば手ブレ補正もほしいし、小柄なボディだとさらにありがたい。 この希望に一番近いのはおそらくシグマのdp2シリーズだろう。45mmの単焦点レンズを持つ、ほぼ唯一の存在。次は35mmクラスで、X100シリーズやRX1シリーズが該当する。中古ならライカX-Eあたりも。でもどれもいまいち私の要求にミートしない。 こういうやっかいな客はそれこそミラーレスにでも行けよ、という声がする。α6500に35mmでもつければいいんじゃね、お金持ちならライカにでも行ってください、という。はい。でもね、結局私は単焦点一本で撮りたいし、レンズ交換できないほうがセンサーダストの面で有利だって思うのだ(かつてのGRから目を逸らしながら)。

そもそも、50mmクラスの単焦点レンズを搭載したコンパクトカメラ自体、銀塩時代まで考えてもそう多くはない。恐らくはキャノネットだとか、オリンパスの35シリーズとか、ミノルタのハイマチックだとか、ヤシカエレクトロ35だとか、そういうレンジファインダー時代のものまで遡らなければならないだろう。そしてその中でも50mm焦点のものよりは広角寄りのものが多い。 その理由は理解できる。長いレンズの方がピンボケするリスクがあるし、広く写せばトリミングもできる。記念写真を撮るなら人物と風景両方写したい。そういうカメラに対するニーズを考えれば考えるほど、広角の方が望ましいのだ。プロ用サブ機として開発されたような機種でさえ、広角ばかりなのだから。50mmを欲するような撮影には一眼レフなりレンジファインダーを使ったほうがいい。ピント位置がちゃんと確認できるし、一眼レフであればボケ量まで撮影時に確認できる。

そしてなにより、今は高性能なズームレンズが溢れている。ズームレンズは便利だ。必ず写さなければならない被写体が存在するときに、これほど心強い存在はない。レンズを交換することなく、場所の移動が制約されていたとしても、きちんと成果を出すことが出来る。望み通りの構図、効果を実現できる。こんな素晴らしいものはない。

じゃあなんで私が単焦点レンズにこだわるのかというと、まあ単なる執着に近いんでしょうね。いちおう理由をならべてみると、概ねサイズが小さいし、概ね明るいし、概ね像の破綻が少ない。あとは、私は何でも撮りたいわけではなくて、手の中にあるもので撮れるものを撮りたい、というスタンスでいるからかもしれない。報道カメラマンみたいに、即応して写真を残さなければならないのだとしたら、私だってズームレンズを選ぶだろう。結局は、単なる趣味なのだ。

時代は多品種少量生産、マスカスタマイゼーションの時代だ、とは言うけれど、入念な検証プロセスを経て、ハード、ソフト共に設計、製造の品質を担保しなければならない複雑なシステムをどうこうするのはやっぱ難しいですよね、という話。

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乗らない飛行機の空港へ行く

夕方、私は羽田空港にいた。とはいっても、別にフライトのチケットを持っていたわけではないし、その場で買うつもりもなかった(どのみち今日のチケットは当日に手に入れられなかっただろうけど)。

用もなく空港へ行くことが好きだ。荷物がないなら、羽田へはモノレールで行くのが良い。長い高架の間、風景はめまぐるしく変わる。ビルの間をすり抜け、運河の脇を行き、整備場を横手に眺めながら、国際線ターミナルビルに滑り込む。このダイナミックさと比べてしまうと、京急線はどれだけ利便性が高かろうともほとんどずっと地下区間で味気ない。

空港へ着いたら、展望デッキに出て、飛び交う飛行機を眺める。私はヌルオタなのでエアバスボーイングの区別もできないし、787(エンジンがシェブロンになってる)、777(ランディングギアが3つ)、767の中のどの機種なのかなんて、わかるはずもない。ただ、あのシンガポールエアラインのA350XWB後ろから見るとめっちゃ主翼付け根後側のラインがかっこいいな、とか、あの飛行機はターミナルへタクシーするのに滑走路を横切らないといけないのか、とか、そんなことを考えるだけ。第一ターミナルであれば、国際ターミナルの向こう、対岸の工場地帯が上げる炎も見物だし、第二ターミナルでは巨大な貨物船が頻繁に通過するのを見ていられる。

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飛行機を見るのに飽きたら中に戻ればいい。時間を潰す方法には事欠かない。なにせ飲食店はたくさんある。だいたいのジャンルは一通り網羅されていると考えて差し支えない。今日の私はブルーシールアイスを食べた。こんなものあったのか、と驚いたが、実は8年も前からやっていたらしい。私の目は節穴だ。

建物で言うと、比較的新しい国際線ターミナルが好きだ。和風を演出したモールは好みが分かれるだろうけど、ずらっと並ぶチェックインカウンターとか、モノレールが走ってくるのが見えるガラス張りの外観だとか、統一感のあるサインシステムとか、いかにも現代の公共施設デザインといった感じで好ましい。ターミナル間はバスが走っている。もし移動するのが国内線ターミナル間なら地下一階の連絡通路を歩いてもいい。でも、こういう施設内を行き来するための自動車道って、どうしてこんなに魅力的なんだろう。

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さて、そろそろ日も暮れたので帰ることにする。レンタカーで帰るという手もあった。ネット予約を確かめてみても、車種次第ではまだ空きがあった。レンタカーのチェーンが許せば、家の近くの店へ乗り捨てることもできる。でも、今日はやめた。さすがに夏休みのど真ん中に、初めての首都高で運転をする勇気はなかった。大人しくモノレールに乗る。品川の駅ナカで回らない立ち食い寿司を食べて帰る。

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欲望の同次変換行列

求めるべきでないものを求めてしまう人々というのがいる。 私で言えば創作活動がしたいだとか、あるいは自動車の運転がしたいとか、電子工作やプログラミングができるようになりたいだとか。 世間一般で言えば、(その能力が無いにもかかわらず)いい大学や企業に所属したい、パートナーと出会いたい、恋愛や結婚がしたい、などだろう。 あるいは空想上ではない未成年に対する性的欲望もここに含まれるのかもしれない(disclaimer: 私は直前まで『allo, toi, toi』を読みかえしていました)。 そういう、その当人が抱くには正しくない、適切でない、間違った欲望というものが存在する、らしい。

機会の平等が極端に冒されているということはない、とここでは仮定する。この仮定が現実に即していないというのは承知の上でだ。 つまり私のような人間が二人いて(たいした災厄である)、その片方のみがある欲望が叶えられないのは、当人の努力や資質が不足しているか、あるいは元より充足しようのない、充足されてはならない類のものであるからだと考えるのが妥当だろう。 ともあれ、みんなのあらゆる願いが同時に叶うことは有り得ないという事実だけは動かしようのないものだろう。 仮に、神様のような計算機があって、常に最適な結果をもたらすオラクルを教えてくれるのだとしても、それが人と人との問題であり、かつ人が取り得る全ての在り方を網羅していない以上は、どうしても充足できない組み合わせというものが存在しうるだろう。

さて、叶わないとわかっている欲望を持ってしまった時、人はどう振る舞うべきなのだろうか。 賢い人はこういうだろう。
「諦めたほうがいいよ」
「当たり前だと思ってるのかもしれないけど、それ全然当たり前じゃないから」
「身分不相応の物をタダで手に入れようとしている」
「ただの甘え」
「自分で自分の思想に自縄自縛されているだけ」
まあたぶん妥当なんでしょう。 そこで、考えを変えなきゃいけないわけだけれども、これって難しくないですか?  自分の内に、間違っている思考があったとして、それを修正することは、それが正しいことだとしても、難しい。 だってそれって自分のよくわからないところから湧いてくる思考を湧き出さないようにしたり思いついても無視したりするように習慣付けるってことでしょ?  確実に苦しい。 アルコールや違法薬物に対する依存症から脱出するグループワークみたいなのが参考になるんですかね。

なんで叶わない側の人間ばかりが苦しまなければならないのか(自分の欲する所を叶える能力も、叶えられない欲望を諦める能力もないからです)。 もっとこう、自分の満たされ方をコントロールできるようなマシーンやメディシンがほしい。 技術や工学の進展がこれらの問題を解決してくれる(かもしれない)。イーガン的世界観だ。 そうすれば私達は楽になれる。余計なことに目を向けないで済む。えっちな服を着た女性や魅力的な女性とすれ違っても糸くずや瓶のふたのようにしか映らない(彼女達はようやく望むがままの格好で外を出歩けるようになる!)。他者を蹂躙するようなあってはならない性的嗜好に悩まされることもない。 理想的な世界! 問題は、そういう世界に我々が到達するまではまだ時間がかかるということで、苦しみながら生きるくらいなら死んでしまいたいよね、という話でした。生きていたくないよねえ。

自覚と責任と自動車(と趣味一般)のはなし

ここ最近自動車が欲しいという気持ちを抱いている。 もちろん自動車の所有にはコストがかかる。車両を購入するイニシャルコスト。車検ガソリン保険駐車場などのランコスト。せいぜい月々の電気代程度で済むPCや、数年毎のオーバホールで済む腕時計とは大違い。すぐに手放せない以上、所有することに相応の覚悟が必要な資産である。

ここで、自動車を獲得することによるベネフィットとはなんだろうか。一番大きいものとして、自分が望んだ時間に、自由に移動するための手段を確保できる、というものがあるのだと思う。たとえば、レンタカーやカーシェアリング、またはタクシーでは、自分が望んだ時間に満車で使えないかもしれないし、そもそも近くにそういったサービスの提供がされていない場合もある。このような状況かつ特に公共交通機関網が貧弱で、通勤通学や普段の生活に支障を来すのであれば、自動車のベネフィットは大きくなるだろう。 また、移動手段以上のものとしての見方としては、それ自体を娯楽の道具として見る、ということが挙げられるだろう。自動車の運転それ自体に楽しみを見出し、エンタテイメント端末やスポーツ器具と同じように、自動車をみなす、ということだ。その楽しみ方はまったくもって正当なものであって、そのために自動車を持つことは馬鹿げている、と一律に否定してしまうのは、あまり筋が良くない主張と言えるのではないだろうか。

さて、ここまではベネフィットの事について書いた。しかしながら、自動車の運転には当然リスクが存在する。 最も明らかな例は交通事故を起こすことだろう。事故を起こした場合、3つの責任が問われることになる。刑事上の責任、行政上の責任、民事上の責任である。刑務所にて服役しなければならないし、免許は取り消されるし、損害賠償をしなければならない。あるいは、現代においてはそれ以上の「責任」が発生するかもしれない。加害者になれば、家族からの糾弾、怨恨、非難は避けられない。かつては親しげだった周囲からの目線も厳しいものへと一点するだろう。仕事をクビになるかもしれない。場合によっては離婚、家族離散ということもあるだろう。 加えて、自分の身体に後遺症を残すこともある(他人の身体を傷つけることは上に含めてしまおう)。即死する事故であればまだ救いがある――やり残したことはるかもしれないが――。重度の昏睡状態におちいったりすれば、身の回りの誰かしらがそれを支えなければならない。身体や認知能力に関する後遺症が残れば、その後の生活は、周囲の人間を巻き込んで、つらく厳しいものへと変わるだろう。 当然、交通事故は社会問題の一つであるから、事故を防く方策は常に進歩しつつある。特に、近年の安全装備高度化にはめざましいものがあると言えよう。しかしながら、それでも事故を撲滅するには至らず、最終的には運転手の技量と判断力に、交通の安全性はゆだねられている(余談:私は「運転に慣れれば事故が減る」という見解に対して懐疑的だ。であるならば、何故「過剰な慣れが事故を誘発する」などという矛盾した主張が同時になされるのか)。

このように、自動車の運転にはコスト、ベネフィット、リスクが存在する。 私が言いたいのは、世の中の運転者はこれらのことを全て自覚した上で、コストもリスクも全て引き受けて、主体的な選択に基づいて、自らの責任で運転を行っている、ということの偉大さだ。 社会においては責任転嫁は許されないことであるという価値観が共有されている。実際、現実的に交通事故の責任から逃れることはできないだろう。 故に、あらゆる自動車の運転はコストとリスクを上回るだけのベネフィットが運転にあるという判断に基づいて行われている。その判断力、運転技量の高さ、そして覚悟に、私は感銘を受ける。 こういった人びとは、たとえ何かが決定的に失われることがあったとしても責任転嫁することなく、全ての帰結をただ静かに受け入れ、責任を果たしていくのだろう。

私はそうではない。運転をしたいと思いつつも、日常生活に自動車は必要ないので、楽しみとしての運転にベネフィットがあると確信できない。私は口先だけの人間だ。事故が怖くて運転することを避けてしまう。運転の技量もない。運転に対する習熟が事故のリスクを減らすとも考えられない。私は、事故を起こしたあとで「運転なんてしなければよかった」と思わないでいられる自信がない。責任から逃げないでいられる確信を持てない。 こういうことを言っていると「自分のしたいこともできないなんて主体性がない、覚悟が足りない。本当は運転したくないのを隠したくてうじうじしてるだけ」と言われてしまうのだろう。そして客観的に見てそれは正しいことなのだろう。 結局は、すべてを自覚した上で、今まさにやっている人間だけが本物で、それ以外は全部フェイクということなんだろう。フェイク野郎に相応しい人生、というわけ。

こういったことが、自動車の運転に限らず、ありとあらゆる欲望に関して、私へ適用される気がする。自覚と責任を持てない、主体性のない、人間未満だ。 社会を生きる大人たちは、自覚と責任を持って生きている。私は少なくとも精神的には大人には程遠い。 大人になる方法も、幸せになる方法も、私にはわからない。生きている間にわかる時が来るとも思えない。 私は弱虫だ。

I just don't know anymore

かつてブログやテキストサイトをやっていた人々のことを尊敬する。全く読まれないし反応もないものね。まだなろうやカクヨムで底辺小説やってる方が気分が楽。

がんばってる奴と
がんばりたい奴と
がんばれない奴

3番目の
クソ野郎はせめて
はじめの2つを
助けてやらねぇと
って思った

いるんだよ
夜凪
世の中には

もう
どうしようもなく
がんばれねぇ
クソ野郎が

『アクタージュ act-age (7)』

私の短くない人生の中で何回も何回も繰り返した失敗なのでこれは確実な真実なのだが、私は出来る人、生産的な人、創造的な人間ではない上に、それらに該当する人の邪魔をすることしかできない。彼らの時間を無限に消費して、有意義な活動をする余地を奪う。 邪魔をするだけなら近づかず、支援するにしても直接の接触をせずに資金面などでサポートするのみにとどめればいいのだが、当の本人はそういった人々に惹かれて近づいていってしまうのでよりいっそうたちが悪い。 組織論で言うと、この問題に対する答えは明確に出ている。そもそも最初からそういう人物をチームに入れないことだ。間違って負の能力を持った人間をチームに組み込んでしまうことは、何よりあってはならない失敗である。故にあらゆる組織はその採用に細心の注意を払う。 そして、そういったtraitを持った人物のことをわざわざ欲する組織が存在するとは考えられない。 似たような言及をされる存在にいわゆる「メンヘラ」がある。インターネットをしていれば「メンヘラに出会ったら逃げろ。関わるな。奴らは関わった人間を全員不幸にする。自分を守れ」あたりの言葉を聞いたことくらいあるだろう。 私は心理学や精神医学について何もしらないけど、多分こういった症状って何らかのつながりがあるんじゃないかって想像している。勝手に思ってるだけで間違ってるかもしれないけど別に本論にはあんまり影響はない。 まあ、なんにせよ、自分が好ましく思っている相手から疎まれることが続く人生というのはつらい。

さて、そういった人々が「適切」に扱われたとして、彼らの苦しみとは、妥当で、仕方のない、自業自得的なものなのだろうか。まあそうかもしれない。 でも、それで彼ら自身でさえも苦しんでいるのであれば、彼ら自身が生きていることは、悲劇そのものだ。他人を不幸にし、自らをも不幸にし、何も生み出さず、誰も幸せになれない。 彼らが生きていたいと願っているならば、多数派の言う事で一人の命を左右してしまうことになるので、これはよくない。 でも、当人ですら生きていたくないのであれば、彼らに安らかな眠りを与える、というオプションを提供するべきなのでないか。

たしかに、福祉が整った社会が出来上がれば、仮に雇われず、誰とも交流せずとも、生存を続けることができるのかもしれない。 でも、そんな「二級市民」の暮らししかできない状況で、みんなが幸福でいられるだなんて、本気で信じられるだろうか。 他人に迷惑をかけてもいいのかもしれない。でも、誰かに嫌な顔をされたままで生きているほどの執着もない。どのみち何もできない人生なのだ(高齢になってから何かを始め、成し遂げられる人は本当にすごいが、なぜそんな凄い人物だと自分自身をとらえられるのだろうか。また、たとえすごいことがなされなくても、いつか誰かが同じことをしてくれるだろう。人間の発想力は有限なのだから)。 向いてない幸せなら諦めればいい。自分を不幸にする思想であれば構わず投げ捨ててしまえばいい、大学進学や就職や結婚だけが幸せじゃない。要するにそれは「お前には向いてないから諦めろ」という宣言に他ならない。たとえそれがどんなに妥当で正しい助言だったとしても、それに従った方が幸せになれるとわかっていたとしても、そんな風に諦めがよく、叶わない欲望を抱かず、抱いてもすぐに投げ捨てられるような賢い人々であったなら、こんなに苦しんだりはしないだろう。 そもそも、人は「再分配」できないって、みんなが言っていることじゃないか。

現状では、苦痛と恐怖と失敗したときの後遺症リスクと周囲への被害リスクを負担して自殺するか、あるいはそれができない有害な弱虫として他人に迷惑をかけ足を引っ張り疎まれ非難され嘲笑され苦しみながら生きる(もちろんそんな中で生きることを選ぶことも可能だ。たとえモンスターと言われようとも、生き残ることは生物として正しい(自然に訴える論証))かの二つに一つだ。直接的に非難されるかどうかはともかく、どちらを選んでも苦しい生活が待っている。 でも、この苦しさまで自業自得なのか? せめて、そこから抜け出すための手段くらい、整備してほしい、許されていてほしい。大したコストはかからないだろう(少なくとも私たちが生き延びてしまった時よりは)。有害な人物が自ら望んで居なくなれば、本人は苦痛から解放され、周囲はその人物からもたらされる被害から抜け出すことができる。まさに願ったりかなったりだ。

人は変わらない、学ばない。であるならば、安らかにそれを終える選択肢くらい、許してくれたっていいだろう。

楽になりたい。