1st of June

こうやって自意識を切り売りすることでしかブログを更新することができない

いったい何を書けばいいのかが分からない。どう書けばいいのかもわからない。傑作じゃなくても書くんだよというのはまことその通りであるが、しかし文章としてのていを成さないのであればそれはたんなるランダムな文字の羅列としてしかとらえられない。そのブートストラップを行うにはどうすればいいのかというと、他人の行っていることを知り、学び、模倣することにあるんだろう。最近の私は全くと言ってもいいほど文章を読んでいないのでその意味でうまくいくはずがないということもわかってはいる。いや、本当にわかっているのか? こうして自動筆記的に文章を打ってみると、そりゃ文字カウントとしては進むわけだけれども、それに何か意味があるというわけではないのだ。意味をなす事はとても難しい。評価されるものであればもっとだ。今のところ話のネタはいくつかある。あるはずだった。まず続けるべきは地図のない街だし、The Pulse of Your HeartやScene Through the Triplet、わたしたちの町でを続けるのも良い。Various Methods of Escape(家出で北海道へ行く話)を書いてもいいし、あるいはsleepland(夢の話)でもいい。書くべきものはたくさんあるはずなのだ。それを現実の世界に引き摺り下ろすことができないのは、偏に私の能力がないからだ。A Million Miles Away(幼馴染と宇宙船で漂流する話)でもいいし、The Girl with the Sun in Her Head(頭の中に住む女の子の話)でもいい。それを見ると、TLの人びとはすごいなと思う。ほぼ週刊でなろう連載したり、物理や電子で同人誌を発行したりしている。自分にはそういうことができない。できていない。本気でやっていないからだというのはその通りで、でも本気でやること自体が私にとって難しい。思えば何かに熱中するということができないまますごしてきた人生だった。知識や成績や優秀さというのは私にとっては全てがフェイクであると感じる。私の方が積極的に騙しにかかっているのだからみんながそれに気づけないのは、それはもう当たり前のことだ。しかしフェイクだからと言って投げ出すことは許されていない。そう思われている以上は、ちゃんとそれ相応の働きをしなければならないのだ。その役割を果たさなければならないのだ。なのに私ときたら何に対しても不真面目で不誠実で、しょっちゅうそこらで遊び呆けている。これは許されないことだ。そりゃ、今いるところにだって不満はあるし、その表明はしてきたつもりだ。しかし、かといって、ここより素晴らしい場所があるとは――すくなくとも私がそこへアクセスできるとは――到底思えない。今時はやりのGAFAに行けばそういうことも有り得るのかもしれないが、残念ながらスキルレベルも技術分野も全然マッチしていない。どこへ行こうと私は私だし、無能は無能だし、The Best and the Brightestは最良の最も聡明な人々なのだ。そういえばこういうStructureのないだらだらとした文章って特に日本語圏外では受け入れられない印象があるんだけど、どうなんでしょう。いや、日本語で書いてもこんなの読む奴いないだろというのはその通りなんですが(読んでくださってる方はありがとうございます)。そういえば先日は東京都内に泊まったのだけれども、やっぱりすごいなと思った。何がすごいのかをうまく言語化しなければならないのだけれども、やっぱり人が集積していることがすごいのだなと思った。人がたくさんいる事それ自体は大して嬉しくないんだけれども、人がたくさんいることによって成立する店やサービスというのが結構あって、それはまさに人口密集地でしかありえないことなのだ。人がたくさんいて、お金もたくさんあるから街はどんどん新しくなる(ところで最近は新宿にあまり元気がない気がする。ミライナタワー周りがひと段落してしまったからだろうか。次は西口、いまスバルビルをスクラップにしていたり、ヨドバシが買い集めている辺りの土地なのだろうか。あるいは駅の内側か。私自身としては東西通路はだいたいメトロプロムナード甲州街道JR東日本の本社ビル前の橋を渡るかするものだと思ってしまっているのであまり不便はないのだけれど、やっぱり道は多い方がいいというのも事実なのでしょうね)。でもたぶん大きな資本で大きなビルばかり立ってしまうというのはそれはそれであまりよろしくなくて、もちろん地主がやってた小さな店舗が今も残っててリニューアルなどの施策に対して禍根を遺したりみたいな状況は全然よろしくないのだけれども、しかしそういう小規模店舗が生きられるような環境がないとあまりに画一的すぎて飽和してしまうような気がしている。地図街ではそういう意味も含めてやや治安が悪いエリアがあり、しかしそのエリアは地価が安いので新しいことをやろうとする人々がそこにオフィスや店舗を構えたりするある意味で若い街へと再生しようとしているみたいな話を書こうとした。書けたかどうかはわからない。少なくとも私の頭の中にはそういう像があった。でも結局それってジェントリフィケーションでしかなくて、あたらしいスラムがどこかに産まれるだけなのではって最近は思っている。まあそれでいいのかもしれない。人が集まっている限り、街の内側でホットな場所とクールな場所とが遷移していく。進行波炉みたいに。まああれは使い終わったところではもう反応しないんだろうからメタファーにしても不適切なんだけれども。閑話休題。とにかく、都市の中での多様性というのは誰かが何らかの方策でコントロールしてできるようなものではおそらくなくて、ただただ圧倒的な人口密度だけがそれを実現しうるのではないかと、そんなことを考えたりしましたとさ。しかしその人口密度が普段の生活を文化的なものから遠ざけてしまうというのはなんとも皮肉なもので、じゃあいったいどうしたらいいんでしょうね。人口密度の高さと人権をどうやって両立させるのか。一部の人はMaaSがその問題を解決すると考えているのだろう。実際、地図街でも、ミニトと呼ばれる自動運転タクシーが走り回っているし、外へは一般の交通網が走り、高速道路は自動で隊列走行するトレーラーが物流を支えているという設定になっている。しかし、これには問題がある。まず鉄道網は誰が保線をするのかということになる。いくら路線が減っているとは言え、幹線クラスは維持されているだろうし、それらの保線はどうなっているのか。もちろん省力化軌道を用いるというのはあるだろうけど、しかしそれだけでうまくいくとも思えない。高速道路も同じだ。道路を保守するのは結局はヒトであるはずだ。ロボット化、自動化がどこまで行えるのかと言われると、かなり疑問がある。まあそういうこともあって自分の考えに疑問が出てきてしまったのも地図街の進捗が止まっている理由でもあります。ほんとすみませんまじで。