レンズ一体型ディジタルカメラ

私は、比較的珍しい側に分類されるであろう、富士フイルムのX70というカメラを使っている。

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35mm換算28mm F2.8の単焦点レンズにAPS-Cの撮像素子を組み合わせた、端的に言えばRICOH GRみたいな市場を狙った製品、のはずである。とはいえGRとはキャラクターが明確に違っていて、操作系は独立したシャッター/絞り/露出補正ダイヤルが基本になっているし、レンズキャップは内蔵型じゃないし、薄さを犠牲にしてチルトのタッチパネルを搭載している。つまりあんまりスナップシューターじゃない。 私は、タッチパネルでフォーカス位置を設定できるのも便利に使っているし、チルト液晶があるととても嬉しいんだけど、後者がGRにつくことはまずなさそうだし、実質的なX70後継とも言えるXF10からも外されている。個人的にはレンズはもっと長いといいなと思うけど、世の中の人々はそう思ってはいないだろう。

何がいいたいかというと、私がいいと思うカメラはまず出てこないんだろうなって話。私の願望というのは、APS-C〜35mmフルサイズの撮像素子に50mm F2からF2.8くらいのAF単焦点レンズを組み合わせた、チルト液晶搭載のレンズ一体型ディジタルカメラだ。できれば手ブレ補正もほしいし、小柄なボディだとさらにありがたい。 この希望に一番近いのはおそらくシグマのdp2シリーズだろう。45mmの単焦点レンズを持つ、ほぼ唯一の存在。次は35mmクラスで、X100シリーズやRX1シリーズが該当する。中古ならライカX-Eあたりも。でもどれもいまいち私の要求にミートしない。 こういうやっかいな客はそれこそミラーレスにでも行けよ、という声がする。α6500に35mmでもつければいいんじゃね、お金持ちならライカにでも行ってください、という。はい。でもね、結局私は単焦点一本で撮りたいし、レンズ交換できないほうがセンサーダストの面で有利だって思うのだ(かつてのGRから目を逸らしながら)。

そもそも、50mmクラスの単焦点レンズを搭載したコンパクトカメラ自体、銀塩時代まで考えてもそう多くはない。恐らくはキャノネットだとか、オリンパスの35シリーズとか、ミノルタのハイマチックだとか、ヤシカエレクトロ35だとか、そういうレンジファインダー時代のものまで遡らなければならないだろう。そしてその中でも50mm焦点のものよりは広角寄りのものが多い。 その理由は理解できる。長いレンズの方がピンボケするリスクがあるし、広く写せばトリミングもできる。記念写真を撮るなら人物と風景両方写したい。そういうカメラに対するニーズを考えれば考えるほど、広角の方が望ましいのだ。プロ用サブ機として開発されたような機種でさえ、広角ばかりなのだから。50mmを欲するような撮影には一眼レフなりレンジファインダーを使ったほうがいい。ピント位置がちゃんと確認できるし、一眼レフであればボケ量まで撮影時に確認できる。

そしてなにより、今は高性能なズームレンズが溢れている。ズームレンズは便利だ。必ず写さなければならない被写体が存在するときに、これほど心強い存在はない。レンズを交換することなく、場所の移動が制約されていたとしても、きちんと成果を出すことが出来る。望み通りの構図、効果を実現できる。こんな素晴らしいものはない。

じゃあなんで私が単焦点レンズにこだわるのかというと、まあ単なる執着に近いんでしょうね。いちおう理由をならべてみると、概ねサイズが小さいし、概ね明るいし、概ね像の破綻が少ない。あとは、私は何でも撮りたいわけではなくて、手の中にあるもので撮れるものを撮りたい、というスタンスでいるからかもしれない。報道カメラマンみたいに、即応して写真を残さなければならないのだとしたら、私だってズームレンズを選ぶだろう。結局は、単なる趣味なのだ。

時代は多品種少量生産、マスカスタマイゼーションの時代だ、とは言うけれど、入念な検証プロセスを経て、ハード、ソフト共に設計、製造の品質を担保しなければならない複雑なシステムをどうこうするのはやっぱ難しいですよね、という話。

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乗らない飛行機の空港へ行く

夕方、私は羽田空港にいた。とはいっても、別にフライトのチケットを持っていたわけではないし、その場で買うつもりもなかった(どのみち今日のチケットは当日に手に入れられなかっただろうけど)。

用もなく空港へ行くことが好きだ。荷物がないなら、羽田へはモノレールで行くのが良い。長い高架の間、風景はめまぐるしく変わる。ビルの間をすり抜け、運河の脇を行き、整備場を横手に眺めながら、国際線ターミナルビルに滑り込む。このダイナミックさと比べてしまうと、京急線はどれだけ利便性が高かろうともほとんどずっと地下区間で味気ない。

空港へ着いたら、展望デッキに出て、飛び交う飛行機を眺める。私はヌルオタなのでエアバスボーイングの区別もできないし、787(エンジンがシェブロンになってる)、777(ランディングギアが3つ)、767の中のどの機種なのかなんて、わかるはずもない。ただ、あのシンガポールエアラインのA350XWB後ろから見るとめっちゃ主翼付け根後側のラインがかっこいいな、とか、あの飛行機はターミナルへタクシーするのに滑走路を横切らないといけないのか、とか、そんなことを考えるだけ。第一ターミナルであれば、国際ターミナルの向こう、対岸の工場地帯が上げる炎も見物だし、第二ターミナルでは巨大な貨物船が頻繁に通過するのを見ていられる。

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飛行機を見るのに飽きたら中に戻ればいい。時間を潰す方法には事欠かない。なにせ飲食店はたくさんある。だいたいのジャンルは一通り網羅されていると考えて差し支えない。今日の私はブルーシールアイスを食べた。こんなものあったのか、と驚いたが、実は8年も前からやっていたらしい。私の目は節穴だ。

建物で言うと、比較的新しい国際線ターミナルが好きだ。和風を演出したモールは好みが分かれるだろうけど、ずらっと並ぶチェックインカウンターとか、モノレールが走ってくるのが見えるガラス張りの外観だとか、統一感のあるサインシステムとか、いかにも現代の公共施設デザインといった感じで好ましい。ターミナル間はバスが走っている。もし移動するのが国内線ターミナル間なら地下一階の連絡通路を歩いてもいい。でも、こういう施設内を行き来するための自動車道って、どうしてこんなに魅力的なんだろう。

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さて、そろそろ日も暮れたので帰ることにする。レンタカーで帰るという手もあった。ネット予約を確かめてみても、車種次第ではまだ空きがあった。レンタカーのチェーンが許せば、家の近くの店へ乗り捨てることもできる。でも、今日はやめた。さすがに夏休みのど真ん中に、初めての首都高で運転をする勇気はなかった。大人しくモノレールに乗る。品川の駅ナカで回らない立ち食い寿司を食べて帰る。

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欲望の同次変換行列

求めるべきでないものを求めてしまう人々というのがいる。 私で言えば創作活動がしたいだとか、あるいは自動車の運転がしたいとか、電子工作やプログラミングができるようになりたいだとか。 世間一般で言えば、(その能力が無いにもかかわらず)いい大学や企業に所属したい、パートナーと出会いたい、恋愛や結婚がしたい、などだろう。 あるいは空想上ではない未成年に対する性的欲望もここに含まれるのかもしれない(disclaimer: 私は直前まで『allo, toi, toi』を読みかえしていました)。 そういう、その当人が抱くには正しくない、適切でない、間違った欲望というものが存在する、らしい。

機会の平等が極端に冒されているということはない、とここでは仮定する。この仮定が現実に即していないというのは承知の上でだ。 つまり私のような人間が二人いて(たいした災厄である)、その片方のみがある欲望が叶えられないのは、当人の努力や資質が不足しているか、あるいは元より充足しようのない、充足されてはならない類のものであるからだと考えるのが妥当だろう。 ともあれ、みんなのあらゆる願いが同時に叶うことは有り得ないという事実だけは動かしようのないものだろう。 仮に、神様のような計算機があって、常に最適な結果をもたらすオラクルを教えてくれるのだとしても、それが人と人との問題であり、かつ人が取り得る全ての在り方を網羅していない以上は、どうしても充足できない組み合わせというものが存在しうるだろう。

さて、叶わないとわかっている欲望を持ってしまった時、人はどう振る舞うべきなのだろうか。 賢い人はこういうだろう。
「諦めたほうがいいよ」
「当たり前だと思ってるのかもしれないけど、それ全然当たり前じゃないから」
「身分不相応の物をタダで手に入れようとしている」
「ただの甘え」
「自分で自分の思想に自縄自縛されているだけ」
まあたぶん妥当なんでしょう。 そこで、考えを変えなきゃいけないわけだけれども、これって難しくないですか?  自分の内に、間違っている思考があったとして、それを修正することは、それが正しいことだとしても、難しい。 だってそれって自分のよくわからないところから湧いてくる思考を湧き出さないようにしたり思いついても無視したりするように習慣付けるってことでしょ?  確実に苦しい。 アルコールや違法薬物に対する依存症から脱出するグループワークみたいなのが参考になるんですかね。

なんで叶わない側の人間ばかりが苦しまなければならないのか(自分の欲する所を叶える能力も、叶えられない欲望を諦める能力もないからです)。 もっとこう、自分の満たされ方をコントロールできるようなマシーンやメディシンがほしい。 技術や工学の進展がこれらの問題を解決してくれる(かもしれない)。イーガン的世界観だ。 そうすれば私達は楽になれる。余計なことに目を向けないで済む。えっちな服を着た女性や魅力的な女性とすれ違っても糸くずや瓶のふたのようにしか映らない(彼女達はようやく望むがままの格好で外を出歩けるようになる!)。他者を蹂躙するようなあってはならない性的嗜好に悩まされることもない。 理想的な世界! 問題は、そういう世界に我々が到達するまではまだ時間がかかるということで、苦しみながら生きるくらいなら死んでしまいたいよね、という話でした。生きていたくないよねえ。

自覚と責任と自動車(と趣味一般)のはなし

ここ最近自動車が欲しいという気持ちを抱いている。 もちろん自動車の所有にはコストがかかる。車両を購入するイニシャルコスト。車検ガソリン保険駐車場などのランコスト。せいぜい月々の電気代程度で済むPCや、数年毎のオーバホールで済む腕時計とは大違い。すぐに手放せない以上、所有することに相応の覚悟が必要な資産である。

ここで、自動車を獲得することによるベネフィットとはなんだろうか。一番大きいものとして、自分が望んだ時間に、自由に移動するための手段を確保できる、というものがあるのだと思う。たとえば、レンタカーやカーシェアリング、またはタクシーでは、自分が望んだ時間に満車で使えないかもしれないし、そもそも近くにそういったサービスの提供がされていない場合もある。このような状況かつ特に公共交通機関網が貧弱で、通勤通学や普段の生活に支障を来すのであれば、自動車のベネフィットは大きくなるだろう。 また、移動手段以上のものとしての見方としては、それ自体を娯楽の道具として見る、ということが挙げられるだろう。自動車の運転それ自体に楽しみを見出し、エンタテイメント端末やスポーツ器具と同じように、自動車をみなす、ということだ。その楽しみ方はまったくもって正当なものであって、そのために自動車を持つことは馬鹿げている、と一律に否定してしまうのは、あまり筋が良くない主張と言えるのではないだろうか。

さて、ここまではベネフィットの事について書いた。しかしながら、自動車の運転には当然リスクが存在する。 最も明らかな例は交通事故を起こすことだろう。事故を起こした場合、3つの責任が問われることになる。刑事上の責任、行政上の責任、民事上の責任である。刑務所にて服役しなければならないし、免許は取り消されるし、損害賠償をしなければならない。あるいは、現代においてはそれ以上の「責任」が発生するかもしれない。加害者になれば、家族からの糾弾、怨恨、非難は避けられない。かつては親しげだった周囲からの目線も厳しいものへと一点するだろう。仕事をクビになるかもしれない。場合によっては離婚、家族離散ということもあるだろう。 加えて、自分の身体に後遺症を残すこともある(他人の身体を傷つけることは上に含めてしまおう)。即死する事故であればまだ救いがある――やり残したことはるかもしれないが――。重度の昏睡状態におちいったりすれば、身の回りの誰かしらがそれを支えなければならない。身体や認知能力に関する後遺症が残れば、その後の生活は、周囲の人間を巻き込んで、つらく厳しいものへと変わるだろう。 当然、交通事故は社会問題の一つであるから、事故を防く方策は常に進歩しつつある。特に、近年の安全装備高度化にはめざましいものがあると言えよう。しかしながら、それでも事故を撲滅するには至らず、最終的には運転手の技量と判断力に、交通の安全性はゆだねられている(余談:私は「運転に慣れれば事故が減る」という見解に対して懐疑的だ。であるならば、何故「過剰な慣れが事故を誘発する」などという矛盾した主張が同時になされるのか)。

このように、自動車の運転にはコスト、ベネフィット、リスクが存在する。 私が言いたいのは、世の中の運転者はこれらのことを全て自覚した上で、コストもリスクも全て引き受けて、主体的な選択に基づいて、自らの責任で運転を行っている、ということの偉大さだ。 社会においては責任転嫁は許されないことであるという価値観が共有されている。実際、現実的に交通事故の責任から逃れることはできないだろう。 故に、あらゆる自動車の運転はコストとリスクを上回るだけのベネフィットが運転にあるという判断に基づいて行われている。その判断力、運転技量の高さ、そして覚悟に、私は感銘を受ける。 こういった人びとは、たとえ何かが決定的に失われることがあったとしても責任転嫁することなく、全ての帰結をただ静かに受け入れ、責任を果たしていくのだろう。

私はそうではない。運転をしたいと思いつつも、日常生活に自動車は必要ないので、楽しみとしての運転にベネフィットがあると確信できない。私は口先だけの人間だ。事故が怖くて運転することを避けてしまう。運転の技量もない。運転に対する習熟が事故のリスクを減らすとも考えられない。私は、事故を起こしたあとで「運転なんてしなければよかった」と思わないでいられる自信がない。責任から逃げないでいられる確信を持てない。 こういうことを言っていると「自分のしたいこともできないなんて主体性がない、覚悟が足りない。本当は運転したくないのを隠したくてうじうじしてるだけ」と言われてしまうのだろう。そして客観的に見てそれは正しいことなのだろう。 結局は、すべてを自覚した上で、今まさにやっている人間だけが本物で、それ以外は全部フェイクということなんだろう。フェイク野郎に相応しい人生、というわけ。

こういったことが、自動車の運転に限らず、ありとあらゆる欲望に関して、私へ適用される気がする。自覚と責任を持てない、主体性のない、人間未満だ。 社会を生きる大人たちは、自覚と責任を持って生きている。私は少なくとも精神的には大人には程遠い。 大人になる方法も、幸せになる方法も、私にはわからない。生きている間にわかる時が来るとも思えない。 私は弱虫だ。

I just don't know anymore

かつてブログやテキストサイトをやっていた人々のことを尊敬する。全く読まれないし反応もないものね。まだなろうやカクヨムで底辺小説やってる方が気分が楽。

がんばってる奴と
がんばりたい奴と
がんばれない奴

3番目の
クソ野郎はせめて
はじめの2つを
助けてやらねぇと
って思った

いるんだよ
夜凪
世の中には

もう
どうしようもなく
がんばれねぇ
クソ野郎が

『アクタージュ act-age (7)』

私の短くない人生の中で何回も何回も繰り返した失敗なのでこれは確実な真実なのだが、私は出来る人、生産的な人、創造的な人間ではない上に、それらに該当する人の邪魔をすることしかできない。彼らの時間を無限に消費して、有意義な活動をする余地を奪う。 邪魔をするだけなら近づかず、支援するにしても直接の接触をせずに資金面などでサポートするのみにとどめればいいのだが、当の本人はそういった人々に惹かれて近づいていってしまうのでよりいっそうたちが悪い。 組織論で言うと、この問題に対する答えは明確に出ている。そもそも最初からそういう人物をチームに入れないことだ。間違って負の能力を持った人間をチームに組み込んでしまうことは、何よりあってはならない失敗である。故にあらゆる組織はその採用に細心の注意を払う。 そして、そういったtraitを持った人物のことをわざわざ欲する組織が存在するとは考えられない。 似たような言及をされる存在にいわゆる「メンヘラ」がある。インターネットをしていれば「メンヘラに出会ったら逃げろ。関わるな。奴らは関わった人間を全員不幸にする。自分を守れ」あたりの言葉を聞いたことくらいあるだろう。 私は心理学や精神医学について何もしらないけど、多分こういった症状って何らかのつながりがあるんじゃないかって想像している。勝手に思ってるだけで間違ってるかもしれないけど別に本論にはあんまり影響はない。 まあ、なんにせよ、自分が好ましく思っている相手から疎まれることが続く人生というのはつらい。

さて、そういった人々が「適切」に扱われたとして、彼らの苦しみとは、妥当で、仕方のない、自業自得的なものなのだろうか。まあそうかもしれない。 でも、それで彼ら自身でさえも苦しんでいるのであれば、彼ら自身が生きていることは、悲劇そのものだ。他人を不幸にし、自らをも不幸にし、何も生み出さず、誰も幸せになれない。 彼らが生きていたいと願っているならば、多数派の言う事で一人の命を左右してしまうことになるので、これはよくない。 でも、当人ですら生きていたくないのであれば、彼らに安らかな眠りを与える、というオプションを提供するべきなのでないか。

たしかに、福祉が整った社会が出来上がれば、仮に雇われず、誰とも交流せずとも、生存を続けることができるのかもしれない。 でも、そんな「二級市民」の暮らししかできない状況で、みんなが幸福でいられるだなんて、本気で信じられるだろうか。 他人に迷惑をかけてもいいのかもしれない。でも、誰かに嫌な顔をされたままで生きているほどの執着もない。どのみち何もできない人生なのだ(高齢になってから何かを始め、成し遂げられる人は本当にすごいが、なぜそんな凄い人物だと自分自身をとらえられるのだろうか。また、たとえすごいことがなされなくても、いつか誰かが同じことをしてくれるだろう。人間の発想力は有限なのだから)。 向いてない幸せなら諦めればいい。自分を不幸にする思想であれば構わず投げ捨ててしまえばいい、大学進学や就職や結婚だけが幸せじゃない。要するにそれは「お前には向いてないから諦めろ」という宣言に他ならない。たとえそれがどんなに妥当で正しい助言だったとしても、それに従った方が幸せになれるとわかっていたとしても、そんな風に諦めがよく、叶わない欲望を抱かず、抱いてもすぐに投げ捨てられるような賢い人々であったなら、こんなに苦しんだりはしないだろう。 そもそも、人は「再分配」できないって、みんなが言っていることじゃないか。

現状では、苦痛と恐怖と失敗したときの後遺症リスクと周囲への被害リスクを負担して自殺するか、あるいはそれができない有害な弱虫として他人に迷惑をかけ足を引っ張り疎まれ非難され嘲笑され苦しみながら生きる(もちろんそんな中で生きることを選ぶことも可能だ。たとえモンスターと言われようとも、生き残ることは生物として正しい(自然に訴える論証))かの二つに一つだ。直接的に非難されるかどうかはともかく、どちらを選んでも苦しい生活が待っている。 でも、この苦しさまで自業自得なのか? せめて、そこから抜け出すための手段くらい、整備してほしい、許されていてほしい。大したコストはかからないだろう(少なくとも私たちが生き延びてしまった時よりは)。有害な人物が自ら望んで居なくなれば、本人は苦痛から解放され、周囲はその人物からもたらされる被害から抜け出すことができる。まさに願ったりかなったりだ。

人は変わらない、学ばない。であるならば、安らかにそれを終える選択肢くらい、許してくれたっていいだろう。

楽になりたい。

都市と場所

誰にも届かない壁打ちしてる。

Imagination on cities

過去記事で上手く言及できなかったこと。

squeuei.hatenablog.com

都市に対する想像という観点で言うと、『天気の子』って結構不満があって、そもそも人口が保たれてるというとか経済が保たれてるというのからしてどうという話はあるんだけど、これを言ってしまうとエピローグができないからそこはさておく。

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インターネット

インターネットなしのインターネッター

「逃亡しろと。どこへ?」
「そうだねえ、電線もなくて、衛星がカバーしてないエリア」
「この地球に、そんなところあるはずねえだろ!」
「逃げるんだとしたら、そういうところを探すしかない」

serial experiments lain

Twitterを使わないようにすると、何をすればいいのかわからない。外出や行動の過程や感想をどう扱っていいか分からないし、時間があいても、新刊が出たばかりの『ふらいんぐうぃっち』を最初から読みかえしたり、Google Newsを何度も更新したり、はてなブックマークを開いては体調を悪くしたりとかしてしまう。悪いインターネットをやめたところで、使う人間がアレだったならば、基底現実の世界でだって当人はアレなままなのだ。

なので最近はインターネットのことを考えている。いや都市に対する想像力についても考えたりしてるけど(ヌルい設定厨志望なので)。あるいはこんな内容のないつまらない価値のないブログ記事を書くことしかできない。

創作物について

かつてのインターネットにおいて好まれていた存在の少なくない割合は、剽窃や無断使用、海賊行為によって成り立っていたことは否定しようのない事実だろう。MAD、Flashコラ画像ニコニコ動画YouTubeへアップロードされた動画の数々、画像リプライを通したコミュニケーション、Tumblrダッシュボード、あるいはWinMXやShareやWinnyBitTorrent(の非合法使用)も含まれるのかもしれない。要するに程度の差はあれ、本質的に違法なのだ。

自由な改変が許される文化として、オープンソースソフトウェアという良い例があるじゃないかと、かつては思っていた。しかし、ソフトウェアと著作物ではやはり目指すところが違うのだと、最近は考えている。 オープンソースソフトウェア――とくに自由ソフトウェア――は、ライセンスすることで他の開発者による改善を受け取れる可能性があるからこそ、そのようなライセンスにて公開されているのだと考える。逆に言えば、利益が生じないような、修正や改善を受けることをそもそも嬉しいと思わない著作物――世間一般的に言われる類の創作物――に関して言えば、(両方の意味で)フリーなライセンスで公開するインセンティブは薄い。 新しい創作物が作り上げられるプロセスは、既存の作品の具体的な実装をベースとして行われているかというと、少なくとも技術や論文ほどにはそうではない。個人の思い入れが強い以上は、創作物の望まれない使い方への忌避感というのは避けようがなく強いものになるだろうと予想がつく。 そもそも、GPLGFDLの背景にある思想は、何かをするための道具や手段ではない、存在それ自体が目的の、属人性が強い、個人や手段の表現としての創作物というのを積極的には対象としていない。

芸術あるいは娯楽作品が自由でなければならない、という立場をわたしたちはとりません。しかし、あなたがそうしたい場合、わたしたちは、自由アート・ライセンスを推奨します。

www.gnu.org

インターネットにアップロードされ得るようなコンテンツが商売として成り立つようになったことは、違法行為に対する適切な――ときには過剰な:私たちは既にBlu-rayの映像を引用することができない世界を生きている――取り締まりを行うための手段を整備させた。たとえばDRM。 そう思うと、現状で世界は健全で適切な方向に進んでいる。著作権とその執行手段の強化が進行していくのは、もちろん著作権者の人々にとってはマネタイズの機会が増えることになるわけで、喜ばしいことではないか。 RMSだって、DRMに対しては強い反対をしているけれど、このあたりの記事を見ると、コピーと再配布は大賛成、作品の修正や改変には消極的に賛成、くらいのニュアンスを感じはする。

japan.zdnet.com

実のところ、誰もが無償で自由に自分の成果物を公開する――剽窃や改変を許すかどうかはともかく――ユートピア的な発想は、なにもゼロ年代インターネッター固有のものではない。 私が思い付く例はアーサー・C・クラークの『都市と星』だ。SFを千冊読んだことはないので、より良い例をSF者なら思い浮かべられるだろう。 しかし、そのような未来には決して私たちは辿り着き得ないのではないか。なにせ、みんな、自分の創作物が大好きで、それを誰かの手によって――少なくとも自分が望まない形で――改変されたくなんてないのだ。

コミュニケーションについて

mixiやそれ以前のインターネットで人と人がつながっただなんて喜んでいたのは、所詮ナローバンドの帯域不足で十分な情報が伝わってなかっただけなのではないか、ということを考えている。 帯域の拡大は、全人的なコンテンツ化を可能とした。YouTuber/VTuberはその典型だ。そこまで至らずとも、みんなそれぞれの日常をTwitterに垂れ流している。長く、太くつながれば、他者は無限に馬脚を現し続ける。つまり、本質的にインターネットは人々を分断することに長けた装置なのではないか。

でも、ある意味では分断が進むことは望ましいことなのかもしれない。争点が可視化され、自分の立場について否が応でも考える機会、決断する機会を設けざるを得なくなる(というのはツイッターのフォロイーからの受け売りです)。 自覚と責任。自分が置かれている状態や立場から目をそらさずに自覚的であること。自分の選択――「選択しない」という選択を含む――の結果生じた不利益の責任を取ること。これらは社会における「大人」の条件として捉えることができるだろう。具体的な例を言えば選挙。 現実逃避と馴れ合いを止め、現実と立ち向かい闘争を始めることが、幼年期を終らせるための苦い苦い特効薬になるのかもしれない。

さて、そのような社会が実現された場合、分断が可視化されないことで基底現実における利益を生み出してきたアライアンス、あるいは知人、友人、家族の関係が瓦解し、もはや基底現実はビジネスライクな関係に終始することになるのかもしれない。つまり、物理的な生命のみをつなぐための感情を極力表出しない――さもなくば生存すら危うくなってしまう――社会。 幸い、私達にはインターネットがある。地理的に近い人々が決して相容れない思想の持ち主ばかりであっても、世界のどこかには許容可能な誰かがいるかもしれない。 そうなると、これからの私達は、精神的には、遠隔地にいる同志との小規模なコミュニティに籠もって生きていくことになるのかもしれない。 基底現実では誰ともわかりあえないけど、インターネットでなら遠くに居ても、同志を見つけられる。なんなら大企業によるスコアリングとマッチングが、それを促進するかもしれない。 さて、このような状況においてインターネットは間違いなく希望だ。でもこれって、ある意味では、現在においても主に非都市部で発生しがちな状況が、あらゆる場所、あらゆる人間関係にまで拡張されるだけ、とも言える。

ここで一つ、気を重くする話を持ち出すと、上記の希望でさえも、更なる争点、分断の可視化が進めば、かつて許せると思った相手でも、結局は他者であり、分断を免れえないので、最終的に付き合えるのは自分自身のみ、といった状況に陥るのかもしれない。 その時には、自分自身とだけ仲良くできるコミュニケーションのソリューション――脳内彼女または脳内彼氏――をインターネット大企業が提供してくれるようになるのを待ちましょう。

いったいどうしてこんなことになってしまったんですかね。ツイッターが悪いのか。いや、ツイッターはあくまで単なるメディアに過ぎない。モノカルチャーで議論がヘタクソな日本人だからか? 昔ならそれで説明できたかもしれない。だが、いまのアメリカを見ていると……なんて『虐殺器官』にでも出てきそうな人物のセリフが出てきてしまいますね。虐殺の言語はどこにもないのに――

むすび

マネタイズ可能性と帯域の拡大。

ゼロ年代に(私だけ!?)抱かされてしまったインターネットに対する幻想がことごとく打倒されていってしまっているのは、でも逆に考えればいいことだ。だって巨視的に見れば常に世界は正しい方向へと向かい続けているのだから。つまり否定されるべきなのは私(たち)であって――

かつて、インターネットは別の世界だったのだと思う。 ちょっと前にインターネットは二番目の社会になった。 これから先は現実を生きるための一手段でしかなくなるのだろう。

このよくわからない文章のまとめを考えるとしたら、たぶん、こんな感じ。

まあなんにせよ、インターネットは道具にすぎない。インターネットに楽園が現れない、地獄が顕現するのは、インターネットを使う人間が悪いのだ。インターネットが、それをより明示的な形で露わにしただけ。人間が使うならインターネットは悪くなるし、インターネットから離れようとも、悪い人間は悪いままなのだ。逃げ道はない。

Rebuilding America isn't gonna get rid of the BTs. Long as they're still around, there's no escaping.

www.youtube.com

PC

ASUS Chromebook C214MA

実際触ってみるとそんなほしいものでもないなって思った。

LTV A-7コルセアⅡ 海軍型 (世界の傑作機 No.188)

すきな飛行機の本なので買った。すき。

飛野さんのバカ(2)

はい。

さよならローズガーデン(2)

本編と全然関係ないんですけど毒田ペパ子さんってDr. Peppercoさんなんですね。ロゼリアのも読んだのに全然気が付かなかった。