欲望の同次変換行列

求めるべきでないものを求めてしまう人々というのがいる。 私で言えば創作活動がしたいだとか、あるいは自動車の運転がしたいとか、電子工作やプログラミングができるようになりたいだとか。 世間一般で言えば、(その能力が無いにもかかわらず)いい大学や企業に所属したい、パートナーと出会いたい、恋愛や結婚がしたい、などだろう。 あるいは空想上ではない未成年に対する性的欲望もここに含まれるのかもしれない(disclaimer: 私は直前まで『allo, toi, toi』を読みかえしていました)。 そういう、その当人が抱くには正しくない、適切でない、間違った欲望というものが存在する、らしい。

機会の平等が極端に冒されているということはない、とここでは仮定する。この仮定が現実に即していないというのは承知の上でだ。 つまり私のような人間が二人いて(たいした災厄である)、その片方のみがある欲望が叶えられないのは、当人の努力や資質が不足しているか、あるいは元より充足しようのない、充足されてはならない類のものであるからだと考えるのが妥当だろう。 ともあれ、みんなのあらゆる願いが同時に叶うことは有り得ないという事実だけは動かしようのないものだろう。 仮に、神様のような計算機があって、常に最適な結果をもたらすオラクルを教えてくれるのだとしても、それが人と人との問題であり、かつ人が取り得る全ての在り方を網羅していない以上は、どうしても充足できない組み合わせというものが存在しうるだろう。

さて、叶わないとわかっている欲望を持ってしまった時、人はどう振る舞うべきなのだろうか。 賢い人はこういうだろう。
「諦めたほうがいいよ」
「当たり前だと思ってるのかもしれないけど、それ全然当たり前じゃないから」
「身分不相応の物をタダで手に入れようとしている」
「ただの甘え」
「自分で自分の思想に自縄自縛されているだけ」
まあたぶん妥当なんでしょう。 そこで、考えを変えなきゃいけないわけだけれども、これって難しくないですか?  自分の内に、間違っている思考があったとして、それを修正することは、それが正しいことだとしても、難しい。 だってそれって自分のよくわからないところから湧いてくる思考を湧き出さないようにしたり思いついても無視したりするように習慣付けるってことでしょ?  確実に苦しい。 アルコールや違法薬物に対する依存症から脱出するグループワークみたいなのが参考になるんですかね。

なんで叶わない側の人間ばかりが苦しまなければならないのか(自分の欲する所を叶える能力も、叶えられない欲望を諦める能力もないからです)。 もっとこう、自分の満たされ方をコントロールできるようなマシーンやメディシンがほしい。 技術や工学の進展がこれらの問題を解決してくれる(かもしれない)。イーガン的世界観だ。 そうすれば私達は楽になれる。余計なことに目を向けないで済む。えっちな服を着た女性や魅力的な女性とすれ違っても糸くずや瓶のふたのようにしか映らない(彼女達はようやく望むがままの格好で外を出歩けるようになる!)。他者を蹂躙するようなあってはならない性的嗜好に悩まされることもない。 理想的な世界! 問題は、そういう世界に我々が到達するまではまだ時間がかかるということで、苦しみながら生きるくらいなら死んでしまいたいよね、という話でした。生きていたくないよねえ。