インターネット

インターネットなしのインターネッター

「逃亡しろと。どこへ?」
「そうだねえ、電線もなくて、衛星がカバーしてないエリア」
「この地球に、そんなところあるはずねえだろ!」
「逃げるんだとしたら、そういうところを探すしかない」

serial experiments lain

Twitterを使わないようにすると、何をすればいいのかわからない。外出や行動の過程や感想をどう扱っていいか分からないし、時間があいても、新刊が出たばかりの『ふらいんぐうぃっち』を最初から読みかえしたり、Google Newsを何度も更新したり、はてなブックマークを開いては体調を悪くしたりとかしてしまう。悪いインターネットをやめたところで、使う人間がアレだったならば、基底現実の世界でだって当人はアレなままなのだ。

なので最近はインターネットのことを考えている。いや都市に対する想像力についても考えたりしてるけど(ヌルい設定厨志望なので)。あるいはこんな内容のないつまらない価値のないブログ記事を書くことしかできない。

創作物について

かつてのインターネットにおいて好まれていた存在の少なくない割合は、剽窃や無断使用、海賊行為によって成り立っていたことは否定しようのない事実だろう。MAD、Flashコラ画像ニコニコ動画YouTubeへアップロードされた動画の数々、画像リプライを通したコミュニケーション、Tumblrダッシュボード、あるいはWinMXやShareやWinnyBitTorrent(の非合法使用)も含まれるのかもしれない。要するに程度の差はあれ、本質的に違法なのだ。

自由な改変が許される文化として、オープンソースソフトウェアという良い例があるじゃないかと、かつては思っていた。しかし、ソフトウェアと著作物ではやはり目指すところが違うのだと、最近は考えている。 オープンソースソフトウェア――とくに自由ソフトウェア――は、ライセンスすることで他の開発者による改善を受け取れる可能性があるからこそ、そのようなライセンスにて公開されているのだと考える。逆に言えば、利益が生じないような、修正や改善を受けることをそもそも嬉しいと思わない著作物――世間一般的に言われる類の創作物――に関して言えば、(両方の意味で)フリーなライセンスで公開するインセンティブは薄い。 新しい創作物が作り上げられるプロセスは、既存の作品の具体的な実装をベースとして行われているかというと、少なくとも技術や論文ほどにはそうではない。個人の思い入れが強い以上は、創作物の望まれない使い方への忌避感というのは避けようがなく強いものになるだろうと予想がつく。 そもそも、GPLGFDLの背景にある思想は、何かをするための道具や手段ではない、存在それ自体が目的の、属人性が強い、個人や手段の表現としての創作物というのを積極的には対象としていない。

芸術あるいは娯楽作品が自由でなければならない、という立場をわたしたちはとりません。しかし、あなたがそうしたい場合、わたしたちは、自由アート・ライセンスを推奨します。

www.gnu.org

インターネットにアップロードされ得るようなコンテンツが商売として成り立つようになったことは、違法行為に対する適切な――ときには過剰な:私たちは既にBlu-rayの映像を引用することができない世界を生きている――取り締まりを行うための手段を整備させた。たとえばDRM。 そう思うと、現状で世界は健全で適切な方向に進んでいる。著作権とその執行手段の強化が進行していくのは、もちろん著作権者の人々にとってはマネタイズの機会が増えることになるわけで、喜ばしいことではないか。 RMSだって、DRMに対しては強い反対をしているけれど、このあたりの記事を見ると、コピーと再配布は大賛成、作品の修正や改変には消極的に賛成、くらいのニュアンスを感じはする。

japan.zdnet.com

実のところ、誰もが無償で自由に自分の成果物を公開する――剽窃や改変を許すかどうかはともかく――ユートピア的な発想は、なにもゼロ年代インターネッター固有のものではない。 私が思い付く例はアーサー・C・クラークの『都市と星』だ。SFを千冊読んだことはないので、より良い例をSF者なら思い浮かべられるだろう。 しかし、そのような未来には決して私たちは辿り着き得ないのではないか。なにせ、みんな、自分の創作物が大好きで、それを誰かの手によって――少なくとも自分が望まない形で――改変されたくなんてないのだ。

コミュニケーションについて

mixiやそれ以前のインターネットで人と人がつながっただなんて喜んでいたのは、所詮ナローバンドの帯域不足で十分な情報が伝わってなかっただけなのではないか、ということを考えている。 帯域の拡大は、全人的なコンテンツ化を可能とした。YouTuber/VTuberはその典型だ。そこまで至らずとも、みんなそれぞれの日常をTwitterに垂れ流している。長く、太くつながれば、他者は無限に馬脚を現し続ける。つまり、本質的にインターネットは人々を分断することに長けた装置なのではないか。

でも、ある意味では分断が進むことは望ましいことなのかもしれない。争点が可視化され、自分の立場について否が応でも考える機会、決断する機会を設けざるを得なくなる(というのはツイッターのフォロイーからの受け売りです)。 自覚と責任。自分が置かれている状態や立場から目をそらさずに自覚的であること。自分の選択――「選択しない」という選択を含む――の結果生じた不利益の責任を取ること。これらは社会における「大人」の条件として捉えることができるだろう。具体的な例を言えば選挙。 現実逃避と馴れ合いを止め、現実と立ち向かい闘争を始めることが、幼年期を終らせるための苦い苦い特効薬になるのかもしれない。

さて、そのような社会が実現された場合、分断が可視化されないことで基底現実における利益を生み出してきたアライアンス、あるいは知人、友人、家族の関係が瓦解し、もはや基底現実はビジネスライクな関係に終始することになるのかもしれない。つまり、物理的な生命のみをつなぐための感情を極力表出しない――さもなくば生存すら危うくなってしまう――社会。 幸い、私達にはインターネットがある。地理的に近い人々が決して相容れない思想の持ち主ばかりであっても、世界のどこかには許容可能な誰かがいるかもしれない。 そうなると、これからの私達は、精神的には、遠隔地にいる同志との小規模なコミュニティに籠もって生きていくことになるのかもしれない。 基底現実では誰ともわかりあえないけど、インターネットでなら遠くに居ても、同志を見つけられる。なんなら大企業によるスコアリングとマッチングが、それを促進するかもしれない。 さて、このような状況においてインターネットは間違いなく希望だ。でもこれって、ある意味では、現在においても主に非都市部で発生しがちな状況が、あらゆる場所、あらゆる人間関係にまで拡張されるだけ、とも言える。

ここで一つ、気を重くする話を持ち出すと、上記の希望でさえも、更なる争点、分断の可視化が進めば、かつて許せると思った相手でも、結局は他者であり、分断を免れえないので、最終的に付き合えるのは自分自身のみ、といった状況に陥るのかもしれない。 その時には、自分自身とだけ仲良くできるコミュニケーションのソリューション――脳内彼女または脳内彼氏――をインターネット大企業が提供してくれるようになるのを待ちましょう。

いったいどうしてこんなことになってしまったんですかね。ツイッターが悪いのか。いや、ツイッターはあくまで単なるメディアに過ぎない。モノカルチャーで議論がヘタクソな日本人だからか? 昔ならそれで説明できたかもしれない。だが、いまのアメリカを見ていると……なんて『虐殺器官』にでも出てきそうな人物のセリフが出てきてしまいますね。虐殺の言語はどこにもないのに――

むすび

マネタイズ可能性と帯域の拡大。

ゼロ年代に(私だけ!?)抱かされてしまったインターネットに対する幻想がことごとく打倒されていってしまっているのは、でも逆に考えればいいことだ。だって巨視的に見れば常に世界は正しい方向へと向かい続けているのだから。つまり否定されるべきなのは私(たち)であって――

かつて、インターネットは別の世界だったのだと思う。 ちょっと前にインターネットは二番目の社会になった。 これから先は現実を生きるための一手段でしかなくなるのだろう。

このよくわからない文章のまとめを考えるとしたら、たぶん、こんな感じ。

まあなんにせよ、インターネットは道具にすぎない。インターネットに楽園が現れない、地獄が顕現するのは、インターネットを使う人間が悪いのだ。インターネットが、それをより明示的な形で露わにしただけ。人間が使うならインターネットは悪くなるし、インターネットから離れようとも、悪い人間は悪いままなのだ。逃げ道はない。

Rebuilding America isn't gonna get rid of the BTs. Long as they're still around, there's no escaping.

www.youtube.com

PC

ASUS Chromebook C214MA

実際触ってみるとそんなほしいものでもないなって思った。

LTV A-7コルセアⅡ 海軍型 (世界の傑作機 No.188)

すきな飛行機の本なので買った。すき。

飛野さんのバカ(2)

はい。

さよならローズガーデン(2)

本編と全然関係ないんですけど毒田ペパ子さんってDr. Peppercoさんなんですね。ロゼリアのも読んだのに全然気が付かなかった。