自覚と責任と自動車(と趣味一般)のはなし

ここ最近自動車が欲しいという気持ちを抱いている。 もちろん自動車の所有にはコストがかかる。車両を購入するイニシャルコスト。車検ガソリン保険駐車場などのランコスト。せいぜい月々の電気代程度で済むPCや、数年毎のオーバホールで済む腕時計とは大違い。すぐに手放せない以上、所有することに相応の覚悟が必要な資産である。

ここで、自動車を獲得することによるベネフィットとはなんだろうか。一番大きいものとして、自分が望んだ時間に、自由に移動するための手段を確保できる、というものがあるのだと思う。たとえば、レンタカーやカーシェアリング、またはタクシーでは、自分が望んだ時間に満車で使えないかもしれないし、そもそも近くにそういったサービスの提供がされていない場合もある。このような状況かつ特に公共交通機関網が貧弱で、通勤通学や普段の生活に支障を来すのであれば、自動車のベネフィットは大きくなるだろう。 また、移動手段以上のものとしての見方としては、それ自体を娯楽の道具として見る、ということが挙げられるだろう。自動車の運転それ自体に楽しみを見出し、エンタテイメント端末やスポーツ器具と同じように、自動車をみなす、ということだ。その楽しみ方はまったくもって正当なものであって、そのために自動車を持つことは馬鹿げている、と一律に否定してしまうのは、あまり筋が良くない主張と言えるのではないだろうか。

さて、ここまではベネフィットの事について書いた。しかしながら、自動車の運転には当然リスクが存在する。 最も明らかな例は交通事故を起こすことだろう。事故を起こした場合、3つの責任が問われることになる。刑事上の責任、行政上の責任、民事上の責任である。刑務所にて服役しなければならないし、免許は取り消されるし、損害賠償をしなければならない。あるいは、現代においてはそれ以上の「責任」が発生するかもしれない。加害者になれば、家族からの糾弾、怨恨、非難は避けられない。かつては親しげだった周囲からの目線も厳しいものへと一点するだろう。仕事をクビになるかもしれない。場合によっては離婚、家族離散ということもあるだろう。 加えて、自分の身体に後遺症を残すこともある(他人の身体を傷つけることは上に含めてしまおう)。即死する事故であればまだ救いがある――やり残したことはるかもしれないが――。重度の昏睡状態におちいったりすれば、身の回りの誰かしらがそれを支えなければならない。身体や認知能力に関する後遺症が残れば、その後の生活は、周囲の人間を巻き込んで、つらく厳しいものへと変わるだろう。 当然、交通事故は社会問題の一つであるから、事故を防く方策は常に進歩しつつある。特に、近年の安全装備高度化にはめざましいものがあると言えよう。しかしながら、それでも事故を撲滅するには至らず、最終的には運転手の技量と判断力に、交通の安全性はゆだねられている(余談:私は「運転に慣れれば事故が減る」という見解に対して懐疑的だ。であるならば、何故「過剰な慣れが事故を誘発する」などという矛盾した主張が同時になされるのか)。

このように、自動車の運転にはコスト、ベネフィット、リスクが存在する。 私が言いたいのは、世の中の運転者はこれらのことを全て自覚した上で、コストもリスクも全て引き受けて、主体的な選択に基づいて、自らの責任で運転を行っている、ということの偉大さだ。 社会においては責任転嫁は許されないことであるという価値観が共有されている。実際、現実的に交通事故の責任から逃れることはできないだろう。 故に、あらゆる自動車の運転はコストとリスクを上回るだけのベネフィットが運転にあるという判断に基づいて行われている。その判断力、運転技量の高さ、そして覚悟に、私は感銘を受ける。 こういった人びとは、たとえ何かが決定的に失われることがあったとしても責任転嫁することなく、全ての帰結をただ静かに受け入れ、責任を果たしていくのだろう。

私はそうではない。運転をしたいと思いつつも、日常生活に自動車は必要ないので、楽しみとしての運転にベネフィットがあると確信できない。私は口先だけの人間だ。事故が怖くて運転することを避けてしまう。運転の技量もない。運転に対する習熟が事故のリスクを減らすとも考えられない。私は、事故を起こしたあとで「運転なんてしなければよかった」と思わないでいられる自信がない。責任から逃げないでいられる確信を持てない。 こういうことを言っていると「自分のしたいこともできないなんて主体性がない、覚悟が足りない。本当は運転したくないのを隠したくてうじうじしてるだけ」と言われてしまうのだろう。そして客観的に見てそれは正しいことなのだろう。 結局は、すべてを自覚した上で、今まさにやっている人間だけが本物で、それ以外は全部フェイクということなんだろう。フェイク野郎に相応しい人生、というわけ。

こういったことが、自動車の運転に限らず、ありとあらゆる欲望に関して、私へ適用される気がする。自覚と責任を持てない、主体性のない、人間未満だ。 社会を生きる大人たちは、自覚と責任を持って生きている。私は少なくとも精神的には大人には程遠い。 大人になる方法も、幸せになる方法も、私にはわからない。生きている間にわかる時が来るとも思えない。 私は弱虫だ。

I just don't know anymore

かつてブログやテキストサイトをやっていた人々のことを尊敬する。全く読まれないし反応もないものね。まだなろうやカクヨムで底辺小説やってる方が気分が楽。

がんばってる奴と
がんばりたい奴と
がんばれない奴

3番目の
クソ野郎はせめて
はじめの2つを
助けてやらねぇと
って思った

いるんだよ
夜凪
世の中には

もう
どうしようもなく
がんばれねぇ
クソ野郎が

『アクタージュ act-age (7)』

私の短くない人生の中で何回も何回も繰り返した失敗なのでこれは確実な真実なのだが、私は出来る人、生産的な人、創造的な人間ではない上に、それらに該当する人の邪魔をすることしかできない。彼らの時間を無限に消費して、有意義な活動をする余地を奪う。 邪魔をするだけなら近づかず、支援するにしても直接の接触をせずに資金面などでサポートするのみにとどめればいいのだが、当の本人はそういった人々に惹かれて近づいていってしまうのでよりいっそうたちが悪い。 組織論で言うと、この問題に対する答えは明確に出ている。そもそも最初からそういう人物をチームに入れないことだ。間違って負の能力を持った人間をチームに組み込んでしまうことは、何よりあってはならない失敗である。故にあらゆる組織はその採用に細心の注意を払う。 そして、そういったtraitを持った人物のことをわざわざ欲する組織が存在するとは考えられない。 似たような言及をされる存在にいわゆる「メンヘラ」がある。インターネットをしていれば「メンヘラに出会ったら逃げろ。関わるな。奴らは関わった人間を全員不幸にする。自分を守れ」あたりの言葉を聞いたことくらいあるだろう。 私は心理学や精神医学について何もしらないけど、多分こういった症状って何らかのつながりがあるんじゃないかって想像している。勝手に思ってるだけで間違ってるかもしれないけど別に本論にはあんまり影響はない。 まあ、なんにせよ、自分が好ましく思っている相手から疎まれることが続く人生というのはつらい。

さて、そういった人々が「適切」に扱われたとして、彼らの苦しみとは、妥当で、仕方のない、自業自得的なものなのだろうか。まあそうかもしれない。 でも、それで彼ら自身でさえも苦しんでいるのであれば、彼ら自身が生きていることは、悲劇そのものだ。他人を不幸にし、自らをも不幸にし、何も生み出さず、誰も幸せになれない。 彼らが生きていたいと願っているならば、多数派の言う事で一人の命を左右してしまうことになるので、これはよくない。 でも、当人ですら生きていたくないのであれば、彼らに安らかな眠りを与える、というオプションを提供するべきなのでないか。

たしかに、福祉が整った社会が出来上がれば、仮に雇われず、誰とも交流せずとも、生存を続けることができるのかもしれない。 でも、そんな「二級市民」の暮らししかできない状況で、みんなが幸福でいられるだなんて、本気で信じられるだろうか。 他人に迷惑をかけてもいいのかもしれない。でも、誰かに嫌な顔をされたままで生きているほどの執着もない。どのみち何もできない人生なのだ(高齢になってから何かを始め、成し遂げられる人は本当にすごいが、なぜそんな凄い人物だと自分自身をとらえられるのだろうか。また、たとえすごいことがなされなくても、いつか誰かが同じことをしてくれるだろう。人間の発想力は有限なのだから)。 向いてない幸せなら諦めればいい。自分を不幸にする思想であれば構わず投げ捨ててしまえばいい、大学進学や就職や結婚だけが幸せじゃない。要するにそれは「お前には向いてないから諦めろ」という宣言に他ならない。たとえそれがどんなに妥当で正しい助言だったとしても、それに従った方が幸せになれるとわかっていたとしても、そんな風に諦めがよく、叶わない欲望を抱かず、抱いてもすぐに投げ捨てられるような賢い人々であったなら、こんなに苦しんだりはしないだろう。 そもそも、人は「再分配」できないって、みんなが言っていることじゃないか。

現状では、苦痛と恐怖と失敗したときの後遺症リスクと周囲への被害リスクを負担して自殺するか、あるいはそれができない有害な弱虫として他人に迷惑をかけ足を引っ張り疎まれ非難され嘲笑され苦しみながら生きる(もちろんそんな中で生きることを選ぶことも可能だ。たとえモンスターと言われようとも、生き残ることは生物として正しい(自然に訴える論証))かの二つに一つだ。直接的に非難されるかどうかはともかく、どちらを選んでも苦しい生活が待っている。 でも、この苦しさまで自業自得なのか? せめて、そこから抜け出すための手段くらい、整備してほしい、許されていてほしい。大したコストはかからないだろう(少なくとも私たちが生き延びてしまった時よりは)。有害な人物が自ら望んで居なくなれば、本人は苦痛から解放され、周囲はその人物からもたらされる被害から抜け出すことができる。まさに願ったりかなったりだ。

人は変わらない、学ばない。であるならば、安らかにそれを終える選択肢くらい、許してくれたっていいだろう。

楽になりたい。

都市と場所

誰にも届かない壁打ちしてる。

Imagination on cities

過去記事で上手く言及できなかったこと。

squeuei.hatenablog.com

都市に対する想像という観点で言うと、『天気の子』って結構不満があって、そもそも人口が保たれてるというとか経済が保たれてるというのからしてどうという話はあるんだけど、これを言ってしまうとエピローグができないからそこはさておく。

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インターネット

インターネットなしのインターネッター

「逃亡しろと。どこへ?」
「そうだねえ、電線もなくて、衛星がカバーしてないエリア」
「この地球に、そんなところあるはずねえだろ!」
「逃げるんだとしたら、そういうところを探すしかない」

serial experiments lain

Twitterを使わないようにすると、何をすればいいのかわからない。外出や行動の過程や感想をどう扱っていいか分からないし、時間があいても、新刊が出たばかりの『ふらいんぐうぃっち』を最初から読みかえしたり、Google Newsを何度も更新したり、はてなブックマークを開いては体調を悪くしたりとかしてしまう。悪いインターネットをやめたところで、使う人間がアレだったならば、基底現実の世界でだって当人はアレなままなのだ。

なので最近はインターネットのことを考えている。いや都市に対する想像力についても考えたりしてるけど(ヌルい設定厨志望なので)。あるいはこんな内容のないつまらない価値のないブログ記事を書くことしかできない。

創作物について

かつてのインターネットにおいて好まれていた存在の少なくない割合は、剽窃や無断使用、海賊行為によって成り立っていたことは否定しようのない事実だろう。MAD、Flashコラ画像ニコニコ動画YouTubeへアップロードされた動画の数々、画像リプライを通したコミュニケーション、Tumblrダッシュボード、あるいはWinMXやShareやWinnyBitTorrent(の非合法使用)も含まれるのかもしれない。要するに程度の差はあれ、本質的に違法なのだ。

自由な改変が許される文化として、オープンソースソフトウェアという良い例があるじゃないかと、かつては思っていた。しかし、ソフトウェアと著作物ではやはり目指すところが違うのだと、最近は考えている。 オープンソースソフトウェア――とくに自由ソフトウェア――は、ライセンスすることで他の開発者による改善を受け取れる可能性があるからこそ、そのようなライセンスにて公開されているのだと考える。逆に言えば、利益が生じないような、修正や改善を受けることをそもそも嬉しいと思わない著作物――世間一般的に言われる類の創作物――に関して言えば、(両方の意味で)フリーなライセンスで公開するインセンティブは薄い。 新しい創作物が作り上げられるプロセスは、既存の作品の具体的な実装をベースとして行われているかというと、少なくとも技術や論文ほどにはそうではない。個人の思い入れが強い以上は、創作物の望まれない使い方への忌避感というのは避けようがなく強いものになるだろうと予想がつく。 そもそも、GPLGFDLの背景にある思想は、何かをするための道具や手段ではない、存在それ自体が目的の、属人性が強い、個人や手段の表現としての創作物というのを積極的には対象としていない。

芸術あるいは娯楽作品が自由でなければならない、という立場をわたしたちはとりません。しかし、あなたがそうしたい場合、わたしたちは、自由アート・ライセンスを推奨します。

www.gnu.org

インターネットにアップロードされ得るようなコンテンツが商売として成り立つようになったことは、違法行為に対する適切な――ときには過剰な:私たちは既にBlu-rayの映像を引用することができない世界を生きている――取り締まりを行うための手段を整備させた。たとえばDRM。 そう思うと、現状で世界は健全で適切な方向に進んでいる。著作権とその執行手段の強化が進行していくのは、もちろん著作権者の人々にとってはマネタイズの機会が増えることになるわけで、喜ばしいことではないか。 RMSだって、DRMに対しては強い反対をしているけれど、このあたりの記事を見ると、コピーと再配布は大賛成、作品の修正や改変には消極的に賛成、くらいのニュアンスを感じはする。

japan.zdnet.com

実のところ、誰もが無償で自由に自分の成果物を公開する――剽窃や改変を許すかどうかはともかく――ユートピア的な発想は、なにもゼロ年代インターネッター固有のものではない。 私が思い付く例はアーサー・C・クラークの『都市と星』だ。SFを千冊読んだことはないので、より良い例をSF者なら思い浮かべられるだろう。 しかし、そのような未来には決して私たちは辿り着き得ないのではないか。なにせ、みんな、自分の創作物が大好きで、それを誰かの手によって――少なくとも自分が望まない形で――改変されたくなんてないのだ。

コミュニケーションについて

mixiやそれ以前のインターネットで人と人がつながっただなんて喜んでいたのは、所詮ナローバンドの帯域不足で十分な情報が伝わってなかっただけなのではないか、ということを考えている。 帯域の拡大は、全人的なコンテンツ化を可能とした。YouTuber/VTuberはその典型だ。そこまで至らずとも、みんなそれぞれの日常をTwitterに垂れ流している。長く、太くつながれば、他者は無限に馬脚を現し続ける。つまり、本質的にインターネットは人々を分断することに長けた装置なのではないか。

でも、ある意味では分断が進むことは望ましいことなのかもしれない。争点が可視化され、自分の立場について否が応でも考える機会、決断する機会を設けざるを得なくなる(というのはツイッターのフォロイーからの受け売りです)。 自覚と責任。自分が置かれている状態や立場から目をそらさずに自覚的であること。自分の選択――「選択しない」という選択を含む――の結果生じた不利益の責任を取ること。これらは社会における「大人」の条件として捉えることができるだろう。具体的な例を言えば選挙。 現実逃避と馴れ合いを止め、現実と立ち向かい闘争を始めることが、幼年期を終らせるための苦い苦い特効薬になるのかもしれない。

さて、そのような社会が実現された場合、分断が可視化されないことで基底現実における利益を生み出してきたアライアンス、あるいは知人、友人、家族の関係が瓦解し、もはや基底現実はビジネスライクな関係に終始することになるのかもしれない。つまり、物理的な生命のみをつなぐための感情を極力表出しない――さもなくば生存すら危うくなってしまう――社会。 幸い、私達にはインターネットがある。地理的に近い人々が決して相容れない思想の持ち主ばかりであっても、世界のどこかには許容可能な誰かがいるかもしれない。 そうなると、これからの私達は、精神的には、遠隔地にいる同志との小規模なコミュニティに籠もって生きていくことになるのかもしれない。 基底現実では誰ともわかりあえないけど、インターネットでなら遠くに居ても、同志を見つけられる。なんなら大企業によるスコアリングとマッチングが、それを促進するかもしれない。 さて、このような状況においてインターネットは間違いなく希望だ。でもこれって、ある意味では、現在においても主に非都市部で発生しがちな状況が、あらゆる場所、あらゆる人間関係にまで拡張されるだけ、とも言える。

ここで一つ、気を重くする話を持ち出すと、上記の希望でさえも、更なる争点、分断の可視化が進めば、かつて許せると思った相手でも、結局は他者であり、分断を免れえないので、最終的に付き合えるのは自分自身のみ、といった状況に陥るのかもしれない。 その時には、自分自身とだけ仲良くできるコミュニケーションのソリューション――脳内彼女または脳内彼氏――をインターネット大企業が提供してくれるようになるのを待ちましょう。

いったいどうしてこんなことになってしまったんですかね。ツイッターが悪いのか。いや、ツイッターはあくまで単なるメディアに過ぎない。モノカルチャーで議論がヘタクソな日本人だからか? 昔ならそれで説明できたかもしれない。だが、いまのアメリカを見ていると……なんて『虐殺器官』にでも出てきそうな人物のセリフが出てきてしまいますね。虐殺の言語はどこにもないのに――

むすび

マネタイズ可能性と帯域の拡大。

ゼロ年代に(私だけ!?)抱かされてしまったインターネットに対する幻想がことごとく打倒されていってしまっているのは、でも逆に考えればいいことだ。だって巨視的に見れば常に世界は正しい方向へと向かい続けているのだから。つまり否定されるべきなのは私(たち)であって――

かつて、インターネットは別の世界だったのだと思う。 ちょっと前にインターネットは二番目の社会になった。 これから先は現実を生きるための一手段でしかなくなるのだろう。

このよくわからない文章のまとめを考えるとしたら、たぶん、こんな感じ。

まあなんにせよ、インターネットは道具にすぎない。インターネットに楽園が現れない、地獄が顕現するのは、インターネットを使う人間が悪いのだ。インターネットが、それをより明示的な形で露わにしただけ。人間が使うならインターネットは悪くなるし、インターネットから離れようとも、悪い人間は悪いままなのだ。逃げ道はない。

Rebuilding America isn't gonna get rid of the BTs. Long as they're still around, there's no escaping.

www.youtube.com

PC

ASUS Chromebook C214MA

実際触ってみるとそんなほしいものでもないなって思った。

LTV A-7コルセアⅡ 海軍型 (世界の傑作機 No.188)

すきな飛行機の本なので買った。すき。

飛野さんのバカ(2)

はい。

さよならローズガーデン(2)

本編と全然関係ないんですけど毒田ペパ子さんってDr. Peppercoさんなんですね。ロゼリアのも読んだのに全然気が付かなかった。

近況

インターネット(インターネットではない)やめろ

ひとに(明示的に)迷惑をかけてしまったのでツイッターとかディスコードから離れている。
自分がいなくても回る世界を感じられるのは随分心地がよく。
とはいえ、しょせんは私、なにか創造的、生産的なことができるはずもなく――

小説

更新の予定、なし――(運転再開の目処は立っていません)

ガルラジ

ガルラジことガールズラジオデイズを聞いている。まだ一期目。
てぇ……富士川から岡崎へドライブしてえ……

電車の中で占い好きの女性と意気投合し、電車を降りる際に自分のLINE IDを一方的に叫ぶ。
その後、カメラを持って神社へ行く。中望遠と中望遠マクロの二本を持っていて、チョイスが謎だった。
LINEにメッセージが来たけど、当人からのメッセージか疑っている(不特定多数に聞かれていたため)。

どういうことだフロイト(現実になることなし)(人格が破綻しているので)(かなしいけど、でも他人に迷惑をかけることがないという観点では望ましいことだ)

PC

HP Elitedesk 800 G4 DM

メインのデスクトップ、HP Z240SFF Workstationを代替するタイミングで欲しい。システムに500GB NVMe SSD、ストレージは1TB SATA SSDを流用。メモリはできれば32GB。Wi-FiHDMI仕様に3年オンサイト保証を付けて。

ASUS Chromebook C214MA

ASUS Chromebook C100PAの代替で欲しい。必要ではない。米ゾンから通販するのがキーボード配列の観点からよさそう。国際保証あり。デュアルコアのGemini Lakeだから結構パワーがありそう。C100PAほど軽くはないが、Chromebookとしては十分快適ではないだろうかと想像する。ソフトウェアまで含めて雑に使えるのがよい。

GPD microPC

持ち歩く用に欲しい。文字をタイプするときにはきっと外付けキーボードが欲しくなると思うので、軽さのアドバンテージが活かせないリスクがある。

Microsoft Surface Pro 6 / Vaio SX12

たしかに欲しいが、品質、信頼性、メモリ16GBの価格などで微妙さを感じている。

Synology DiskStation DS718+ / DS918+

NAS。ほしいけど、常時回してるとうるさいか。2ベイ OR 4ベイ。WD Redあたり。RAID-1?

車が欲しい。スイフトがいいか、NAの軽がいいか。しかしそんな資金の余裕も駐車場も運転技術もあるはずがなく――

あーとかうーしか言えない(2)

あー

ダンベル何キロ持てる? (1-2)

おもしろい

ふらいんぐうぃっち(8)

よい

春のムショク(4)

いいはなしだった

ななかさんの印税生活(3)

創作者はすごい

東京入星管理局(1)

おもしろい

普通の女子校生が【ろこどる】やってみた。(1-7)

いいはなし

売国機関(2)

むずかしい

FACTFULNESS

ファクトを求める動きというのはファクトの正当性を巡る闘争にしか辿り着かないのではないか。

Maker Faire Tokyo 2019

行った。暑かった。思ったより小さい。展示されているものはすごかったり熱意に溢れていたりしていたのだと思う。しかし、私が机の向こうがわへ行くことはないんだろうという思いに駆られることとなった。同人誌即売会と同じね。『ハッカーと画家』だけ買って帰った。

インターネットの悪いシネマ

シャークネード3

突っ込みどころが多い。1、2を見たあとだと感動もひとしおらしい(未視聴)

言の葉の庭

「ひとはどっかおかしい」とか「人生で一番幸せな時間」とか、『天気の子』を見た後だと通底するテーマやモチーフを感じる。

ナナニジ(22/7)

『理解者』の歌詞が妙に刺さったので気にしてしまっている。『何もしてあげられない』はPVはいいけど歌詞はそんなに。現実のアイドルを愛すればいいのか、虚構のキャラクターを愛せばいいのか、ファンはどうやって彼女達のことを捉えているのだろうか。

Weathering with You

 映画『天気の子』を見てきました。

 『天気の子』、私には乗り切れなかった話という感覚がめっちゃ強い。話の筋自体には大して文句がないんだけど、逆に大して思い入れもなく、故に本筋とは全く関係のない不満ばかり考えてしまう。
 ストーリーに関しては無限に話されていると思うので、あまり言及しません。なので妙な方向からの視点で話をします。それって、ただのいいがかりでは? でもボーイミーツガールに関して私が言えることは何一つないので……

 以下ネタバレ感想です。

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Fedoraとのつきあいかた

ふと思い立ってOpenBSDを使ってみようとして、案外すんなり動作することに驚きつつも、ドライバーがなかったり、サスペンドから復帰できなかったりと、いまいちうまく行かないなあなんて思っているうちに、デュアルブートにしていたThinkpadWindows領域をddで吹っ飛ばしたりしましたが元気です。データ上書きされたのは最初の500MB位だったのでtestdiskを使ってNTFSパーティションを復旧してデータ救出するところまではできました。

OpenBSDは設定ファイルが明快だったり、manの品質が高かったりして、結構好印象でした。なのでまた何らかしらのマシンでチャレンジしたいですね。HP Elitebook 820 G1でOpenBSDをブートする時画面が乱れる問題の対策としてはmachine gopオプションを変えるとうまくいきます。

そんなこんなでE7270にFedora 30をインストールします。なんで!? インストールはめちゃくちゃ簡単だし、debianと違ってfirmwareはバイナリブロブであってもゆるすポリシーなので最初からWi-Fiが使えます。

問題があるとすると、日本語入力でしょうか。FedoraIMEibus-kkcが標準です。libkkc、比較的新しくていいんですが、既にメンテナンスが放置モードっぽいのがちょっと不安。kkcのつらいところに、スペースを打っても全角スペース(U+3000 Ideographic Space)にならないところと、ltuで「っ」が入力できないことの二つが挙げられます。この問題に対する解決方法としては、些か乱暴ですが/usr/share/libkkc/rules/default/rom-kana/default.jsonを編集してしまうというものがあります。具体的には

...
"z_": ["", " "],
"ltu":["", "っ"],
"vyu":["", "う゛ゅ"]
...

などとします。Lを打つと全角スペースが出て来るのは変な感じですが、少なくとも「くうはく」と打って変換するよりは気が楽かなと。 ただし、Firefox上でDiscordやTweetdeckを使うと入力モード切り替え直後の一文字が直接入力になってしまうという症状に悩まされたのでさっさとfcitx-kkcにしてしまいした。DEがXfceだからできる技、というわけでもないか。辞書はibus-kkcじゃないと編集できない気がするので、~/.config/fcitx/kkc/dictionary/のファイルを直接いじってしまうのが手っ取り早いかも。 mozc、ibus-mozcはモード切り替え直後が直接入力だったり、fcitx-mozcやmozc自体のパッケージが用意されてないディストリビューションアーキテクチャがあったりと、なんだかんだで万能ではないので、更新終了して久しいanthyに代わってどうにか使えるようになっていってほしいところです。

あとは何かあったっけ。ああ、環境変数~/.bash_profileに書くっぽいですね。rcloneを使うと不自由で邪悪なバイナリブロブを使わずにdropboxのファイル同期ができるので自由ソフトウェアの革命闘士ごっこが捗りますが、そもそもファームウェアが入ってしまっている以上は微妙ですね。RPMfusionからffmpegとかいれたりもしますし。

とりあえずそんな感じで使っていってみようと思いますはい。

2019-08-27更新

DEをGNOMEに変えました。Fedoraの開発は今後WaylandやPipewireなどでますますGNOMEと深く結びついていくっぽいです。なので、Fedoraを使うならGNOMEが一級市民かな、という気持ちになっています。他のDE使いたいならUbuntu系列やDebianやArchに行くのがいいのではないか。